台湾役者日記

2005/05/30(月)05:11

嘉義で?

役者か?(54)

嘉義で撮影するんだと思ったら、連れて行かれたのは台南県白河のオープンセットだった。『風中緋櫻』クランクアップの、思い出の地である。それにしても遠い。クルマは結構ぶっ飛ばして走ったのだが、それでも40分かかった。40キロは離れてるんじゃないか。最寄り駅、ほんとに嘉義か? 2003年暮れに行ったときは台北からスタッフ詰め合わせバンで行き、帰りは蘇哥(スウゴオ=スウ兄貴)の暴走セダンで帰って来たんで、鉄路のどのあたりになるのかは知らないですんだ。 *** 台北で買った牛丼は量としては頼りないもので、嘉義に着いたらまた腹が減り、スタッフが迎えに来るまでの間、駅前の食堂で「鶏肉飯(トリ肉かけご飯)」を食べた。「仁愛路」という駅前目抜き通りの入り口に二軒向かい合わせで店があって、「嘉義名物」みたいな看板が出てたんで、試しに食べた。うまかった。大1杯30元(日本円100円弱)。 嘉義まで来ると完全に台湾語の世界だ。駅前で客を引くタクシーの「運将(運ちゃん)」や得体の知れない軽装のオヤジらが、ことごとく台湾語で呼びかけてくる。「どこ行くんだ?」「乗ってけや」みたいなことを言ってるんだと思うんだが、分からない。もしかすると「みやげは買ったのか?」と言ってるのかもしれない。だいぶん南へ来たんで暑いかと思ったら、今日の天気はそれほどでもなかった。 *** 今日収録したのは、例の物件である。本来は別の役で、東京まで出かけて1週間くらいの日程で撮る予定だったんだが、当方が秘密コンテンツ発信組織にリクルートされかかっていて、日程が後ろへずれ込むほど時間が不自由になる、という事情から、「他の役でさっさと出てもらおう」ということになったらしい。 ということで、「1話出ずっぱり」のハナシはなくなった。ちょっと残念だが、仕方がない。 衣装は姚君が別のドラマの仕事で大陸へ行ってしまったんで、維維(ウエイウエイ)が仕切っている。「道具(ダオヂユ=美術)」には『風中』で一緒に仕事したスタッフが二人入っていて、懐かしかった。また、「製片組(プロデューサー付)」にはAYAが、「導演組(監督付)」にはYOYOがいて、二人は『風中』のときは実習生で夏休みに「劇組(撮影隊)」に入って一緒に花蓮で仕事したんだが、卒業後はこの業界の一員となった。 連続ドラマの仕事仲間に対しては、独特の感情が沸く。まったく同じメンバーが別のドラマで完全にそろう、ということは、まずあり得ない。撮影中は長期間一緒に行動する。まさに「同じ釜のメシを喰う」関係。仕事中には衝突もあるが、ワンカットを撮り終えるたびに喜びを共有するし、人手が足りないときは、差し支えない範囲で手助けしたりもする。撮影が終わる頃には、なにか永遠にこのメンバーで「旅芸人の記録」みたいに暮らしていくのか、という錯覚すら抱くほどになる。 そこへ、ある日突然、クランクアップがやってくるのだ。 台南県白河のオープンセットは、わたしには忘れられない現場である。ここへまた来ることになるとは思わなかった。しかも、維維やほかの連中と、ここで一緒に仕事できるとは。 *** 芝居そのものは拍子抜けするほど短いもので、「ヒロインの父親がアヘン窟からヘベレケになって出てくるのを部下に命じて連行させる1930年頃の日本人警察官」の役。1時間ほどで3カット撮ってオシマイ。 21時過ぎに撮り終えて、ほかの皆が次のシーンにかかっているのを尻目に、スタッフにまた嘉義まで送ってもらい、長距離バスに乗って台北に帰った。ちょうど2時に台北駅前のバスターミナルに着いた。

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