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碧山窟

里山を買うまで(1)

ネオ・エデン賛歌

 私は、じぃさん、ばあさんに好かれる性格なのかも知れません。
 今でも、捕虫網を持って、里山を歩いていると、ばぁさんに声をかけられますよ。
 「うちにあがって、お茶飲んでいかないかぃ。」
 ねぇちゃんでないのが、ちびっと残念です。
 でも、お茶をゴチになりながら、このばぁちゃん、どんな少女だったのかな・・ なんて思うと、楽しくなったりします。


 子供の頃は、自転車で4kmぐらい離れた東北の里山によく出かけました。
今では珍しくなった、ハルリンドウやオミナエシ、開墾途中で放棄された水田跡には、モウセンゴケやサギソウ、トキソウが沢山ありました。そうそう。トンボソウなんてのも「自生」していました。
 そんな野山を歩いているうち、中学生の頃には小学館の植物図鑑がまるごと1冊、頭の中に入っていました。
 春にはワラビやゼンマイ、秋にはキノコを探しているじいさん、ばあさんとよく会いました。
 少年の私に山の由来や、水源地のことなど話ししてくれました。

 山の歴史など、少年の私には、理解できるはずがありません。

 でも、じぃさん、ばぁさんたちは、誰かに語りたかったのだろうと思います。ちょうど、田中角栄の「日本列島改造論」が出た頃です。

 私は、「相手が話ししているときは、よく聞く」性格だったためか、じぃさん、ばぁさんたちは、いつまでも話しをしてくれました。

 もうひとつ、私にとってラッキーだったこと。
 それは、3人のじぃさんがいたことです。

 第一のじぃさんは、多分、全国的に有名な育種の先駆者です。
 その果物の名前を言えば、「あ。あの人か・・」と、果樹栽培をしている人は気づくでしょう。
 たまたま近所に住んでいたのです。そして、小学生の私が遊びに行っても大人扱いしてくれました。旧カナづかいの重々しい植物図鑑や昆虫図鑑を開いて、私がみつけた植物や昆虫を同定してくれました。また、イチゴとネギをいっしょに植えるといいと教えてくれたのも、そのじぃさんです。

 第二のじぃさんは、母の俳句の先生です。
 彼は、小品盆栽を愛していました。そして、中学生の私に、自作の俳句集を渡して私が俳句を鑑賞して意見を言うと、うんうん。。と、うなずいてくれました。今にして思えば「褒め殺し教育」だったのかもしれません。私は、俳句の世界に目をひらかれ、高校生の時には先輩や後輩たちの読書感想文の代筆をしていました。あっ。大学になってからもネ。みんな感想文では、Aを貰ったよ。今は、子供たちの自由研究の代筆したりして、トホホですが。。爆

 第三のじぃさんは、乾物の行商をしていたぢぃさんです。
 彼は、元、教師でした。どこで教師をしていたかというと、「台湾」です。
 終戦と同時に教師をやめて、乾物の行商をしていたのです。
 不思議なじぃさんでした。
 中国語、英語、マレーシア語。浅黒い人なつっこい顔からこぼれて来る、遠い南の島の話し。でも、悲惨な話しは一切しません。彼との出会いがきっかけになって、小学生の私は、台湾の人たちと文通をはじめました。なんと。彼の教え子が小学校の教師になっていたのです。なおかつ、そのクラスの子供たちは、私と同じ年齢だったのです。小学生だし、漢文なんてわからなかったけど、必死に読みましたよ。でも、旧漢字なのに、みんな字が上手だったなぁ。(遠い目)

 ここまで書くと年齢不詳みたいなのでバラしちゃいます。
 今45歳。でも、山を買ったときは42歳だったのです。

 きっかけは41歳の秋でした。

 定年退職前に印刷会社を退職して、悠々と生活を送っていた第四のじぃさんが、語りかけてきました。
 「カケルさんよぉ、古民家を買うことにしたんだ。見てみないかぃ」


・・・続きはまたの機会に・・

ハウルの動く城って里山だったの?ま、それはさておき、続きを応援してください。

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