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テーマ:政治について(20208)
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「まずは伝統に根ざすべきである。」ダライ・ラマは、般若心経の解説の冒頭近くで様々な宗教から仏教に関心を持ち、知恵を得ようとしている人たちに、そう語りかけている。
おぃらはクリスチャンだが都市の根無し草クリスチャンの伝統の系列にある。それは、バプテストであるからだ。 バプテストの誕生については、西南大学のセンセイたちがちびちび小出しにしていて全体を俯瞰できる論文はまだ出ていない。イギリスがヘンリー八世によって国教会となり、カトリックの人たちがほそぼそと礼拝を守っている中、信仰の自由を求めた彼らはなんとオランダに渡り、倉庫で自分たちの礼拝を始めた。それだけではなく、アルミニウス主義を取り入れカトリックの一部にあった再洗礼を主張するヨーロッパの人たちとも連絡と議論を繰り返す中で「信仰告白」をつくり、そして一部の人たちは迫害を受けると承知の上でイギリスに帰り、清教徒革命へとつながっていく。また一部の人たちは、アメリカをめざして現代がある。 簡単に書いたが、歴史はそう簡単なことではなかったんだ。 そして、ダライ・ラマが般若心経の解説の中で「宗教とは本来よきものでなければならない。伝統をはそれを現している。」という言葉を再度検証してみるとなるほど、そうなのだ。 都市と地方とでこのことを一元的に論じることはできないだろう。 都市は破壊と創造が伝統であり、地方は人材も素材も都市という花のためにあるかのようでもある。逆に都市から地方を見るとカネに縛られず伝統に根ざして生きているものはきわめて幸いにすごしているのを見るだろう。 価値観は多元的である。しかし、それは人類の歴史の中で都市が生まれてからそのまま継承されてきたものでもある。 肝心なのは「ステージ」の維持なのではなかろうか。 * ダライ・ラマの般若心経解説は、途中からとたんに難しくなる。様々な心の現象がキーワードで羅列されていく。そのときおぃらは眺めているうちに、あ! と思ったのだ。 彼は、曼荼羅を見ながら解説を書いている。 システムを自然界と心世界から拾い集めつなげて構築し、等分に現象ごとに配列していく。その図像があり俯瞰しながら彼は書いている。 だから、空海は現象を単純化せず現象のままシステムに展開できたのではなかろうか。展開できたらもはや、曼荼羅はいらない。 ところが、「伝統に根ざす」ところで曼荼羅のシステムのある空間で語られると現象はより深く意味をなしてくる。それを「仏像」というアイコンに置換してみよう。 バプテストの宣教師は仏像を「偶像」と言うかも知れない。 しかし、本質は違うのだ。現象は金の牛のようなツールではないのだから。 自分がいるその地域にある疎水や石碑、歴史から継承されたものを教科書からではなく自ら解説すること。クリスチャンにもムスリムにもアボリジニにも。 解説をするためには学ばねばならない。 そしてはじめて、われらは地球人の中の日本人になれるのだ。 おぃらが山の中で水晶を含んでいる石や金の鉱石をやすやすと見つけられるのも伝統に根ざしているからだ。なにせ、伊達政宗がしっかりと地質調査をしてカネを生み出したところにおぃらの山もあるのだから。 * カネは毒薬でもある。 道路特定財源は一時しのぎのものだった筈だ。それにニューディール政策の真似をしたダムの建設もだ。 本質は薬であるから毒である。 もし、それがないと生きられないとすれば「中毒」である。 国県協議の書類を書いたことがある経験から言わせてもらえば、国庫請求をした時点で地方の自己負担が要求される形式になっている。地方単立事業はどうしても規模が小さくなり、利権は薄くなる。国が50%を持つ事業のうまみはそこいらにあるのだね。 中毒からは脱しなければならない。 どのようにして? そこで「伝統に根ざす」ということをもう一度反芻してみる。 時代にあわせてだよ。 そうすると、幼稚園と保育園がなぜ一貫できないのかというなぞや、福祉のなぞがなだれのように出てくる。 なんで、私立の幼稚園のセンセイの給料はあんなに安いんだ? エジソン少年のように質問してみよう。 なんで、福祉をめざす彼らが人材派遣に搾取されているんだ? ハードウエアはそろそろもう飽和してるんだ。次は福祉と教育なんだよ。 そして、競争はもういらない。 伝統によって選択されるんだ。 おそらくそれが中毒からの出口なんだろうけど。 悪魔の胃袋に棲んでいると、わかんねぇだろうなぁ。(爆) →人気blogランキングはこっちをクリック!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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