2008/08/29(金)00:42
シャーマンと酒と消費者
ディセンションパーティから帰ってまいりました。
ええ。
お酒を飲まないように努力しよう、なんてことは全然考えてませんでした(をいをい)
しかしながら、ハイヤーセルフが死守したのか、自分の身体が拒否したのか。
これがまた上手いことなってるんですわ。
立食パーティという名の好きなモノ食べてええで~方式。
一人一人に持ってこられて決まったメニューを否応ナシに食え!といわれるよりも、どんだけ過ごしやすいか(笑)
もちろん嬉々としてお皿を持って向かいましたとも!
一番最初に、フルーツとサラダとゴマ団子を乗せていたのは内緒だ。
いや内緒じゃない、「なにそれ~!?最初からスイカ?」と突っ込まれたけども。
スイカとメロンとパイナップルとブドウとナシ。フルーツとはいえ食いすぎ(´▽`*)
食べたいモン食べたらええねん、スイカ食ってナニが悪い、ふふん。
てかスイカだけとちゃうやん…。
そんなわけで、肉食強要をされることもなく、ウーロン茶を飲みつつニコニコ。
しかしね。
おエライおっちゃんたち。
ビール瓶を持って回ってくる。
「まぁまぁまぁ、何?お茶?ちょっとくらいグラスもってほらほら、はいどーぞ」
半強制ではなく、強制!(爆)
それも入れ替わり立ち代り。
なので、まったく飲まなかったわけでもなく、かといってグビグビ飲んだわけでもなく(笑)
仕事がらみって厄介でヤ~ね。
そして、本日の出発前にお風呂入って水行中に、ふと浮かんだ。
昔のシャーマンは、チャネリングの際に酩酊状態になるために、お酒も利用したのじゃなかったっけ?麻薬も吸っていたよね?確か。
んじゃ高次の神からのお告げとかっていうのは、嘘っぱちだったのかなぁ?
という疑問が沸いた。
私自身も、以前のハイヤーセルフさんとの交信(他者のハイヤーセルフさん)は、居酒屋で、いくらか飲んで自我が薄れたときにハッキリと成立していた。
言葉が降ってくるように明確に聞き取れた。
私たちは、自分のハイヤーセルフさんの言葉を自分で聞くのではなく、相手のハイヤーセルフさんの言葉を受信して伝える…という方法を取っていた。
そして涙が流れるような温かい言葉をいくつも貰い、居酒屋で二人して泣いていたこともある。
温かいね、守られてるね、感謝だね・・・と。
そして翌日には、相手のハイヤーセルフさんが言った言葉は、その本人の心の中にしっかりと焼き付けられているのに対して、媒体となった側は、何を言ったのかさえも覚えていないのが常だった。
なので、あれが全くの嘘っぱちだとは思えないし、ん~??と思っていると、「DNAが以前の状態とは変化しているから、気をつけて」と。
あぁ!なるほどね!そういうことか。
以前は成立していた、シャーマンと神、私とハイヤーセルフなどの関係と、今のDNA活性化が進んだ状態での交信とは、少し質が変わって来てるのかな。
そして身体が自然と拒否をする。
それを無視して飲食をすると、あとで痛い目に遭う。
わかっちゃいるけど止められない!はい!スースー…はもう昔の話で。
今はわかっちゃう前にストップがかかる。オモロイね。
うへ~。
もうすでに異常に眠くて、すでにちょっと下腹が痛い…うぷぷぷ♪
そして風呂上りに浮かんだもうひとつのフレーズ。
「消費者」と「生産者」
消費者センターとか、賢い消費者になりましょうとか、よく言われてきたけども。
あくどい業者から身を守る…とかって意味ですね。
実際あくどい商売がまかり通っていたから、守る必要性もあるでしょう。
しかし…。
ふと疑問に思ったのは。
どうして自分は消費者だ、と決めちゃうのか、ってとこ。
確かにお金を払ってモノを買うことが消費です、と説明されたら消費者なんだろう。
でも「消費」っていう言葉の意味は、「物・時間・エネルギーなどを、使ってなくすること」
「なくすること」が、消費です。
無くするための権利を守り、自分は「無くする者だ」と主張する…。
なんかね、違和感を感じたの。
使って使って使い倒すことを、自分だ、と言い切ることに。
たかだか、表記の言葉なんでしょうが。
でもあなた方は消費者だ、と思い込まされてきた私たち。
いーや!私は消費者だけじゃない。
消費をしてしまうこともある。電気やガスや食品やその他もろもろのもの。
でもその一面しか持たないわけじゃない。
その反対に「生産者」
何かを提供するもの。食物だったり、工業製品だったり、アートだったり…。
主婦だから生産者じゃない、のかな?
学生だったら生産者じゃない、のかな?
経済第一主義なら、金になる生産性を持たないものの立場は弱い。
でももう、その主義はなんだか終焉を迎えつつある。
夢の生産。温かさの生産。触れ合いの生産。配慮の生産。
今、いろんな会社で叫ばれてきていることは、CS。顧客満足度アップ。
お客様の要望の先取りをして、お客様自身が気付く前に配慮の出来るスタッフ。
通り一遍のサービスではなく、夢と感動を呼ぶような業務。
お金だけでは買えない、温かみのある触れ合いの実践。
ね。
会社からもそれを求められる。すでに社会も変わりつつある。
そしてそれは誰しもが持つ、優しさであり、温かさであり、光である。
そういうものが大事ですよ、それが売り物なんですよ、という方向にシフトしている。
そしてそれは、何も五体満足で会社勤務で労働力と見なされる人でないと出来ない行為じゃない。
主婦だって、どこかで誰かにそんな気持ちをプレゼントしてる。
学生だって、同じく。
老人だって、子どもだって、誰だって出来る。
お金、という対価に当て嵌めなければ、誰もがどちらを演じても全然OK。
消費するときもある、提供するときもある。
「私は消費者だ、だからこう言ってもいいはず!」
でも、もし自分が提供する側だったら、そういう態度に出るかな?
主義主張をゴリゴリ通すという態度は、自分をある一定の枠に嵌めこもうとする姿。
私は○○である、と宣言する前に、私は本当に○○なのか?と自分を振り返る目を、
いつも持っていたい…と思った。
刷り込まれた認識を、自分の価値観と照らし合わす。
そういうことも大事かもね。