***(;^ω^)ちょっと待ってよ!早すぎるし★パンジ-で春を感じる料理を食す&小鳥たち
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2021.04.10
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2007.03.28
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MightiesOB 一林繁先生のエッセイが日本医事新報 No.4317に掲載されています。
アメリカンフットボール賛歌 —ある選手の引退一話— 石川県金沢市 一林 繁 ふとしたことから、五年前より母校東邦大学医学部のアメリカンフットボール(以下アメフット)部のコーチを引き受けることになった。 医学部でアメフットチームを持つ大学はきわめて少ない。しかも、持っているのはほぼ関東地区に集中している。歯学部も似たような状況だった。そこで、関東学生連盟の配慮により、昭和五十二年、一般大学リーグの別枠として、関東医科・ 歯科リーグが組織された。当初、10校が加盟。最初の優勝校は、この時創部十二年目のわが校だったと記憶する。その後アメフットの認知度の高まりとともにチーム数が増加。最大二〇校までに至ったが、体育会系離れの風潮は医学部でも例外とはならなかった。近年、加盟校数が減少しつつあるのは残念でならない。硬質なものを持ちえなくなったのだろうか。そうではないと思いたい。 平成十八年春に卒業した強者たち(わがチームのニックネームはmightiesという)の中に、Aという部員がいた。Aは六年前、一年生時の辛い夏合宿を終えた後、病を得た。スポーツを続けられないと悟り、秋期公式戦前に退部を決心した。しかし、同期の仲間は必死で「一緒にやろうじゃないか。アメフットは選手だけで成り立っているスポーツじゃない。仕事はたくさんある。一緒にやろう」と説得したという。 確かに、アメフットは総合力を求められるスポーツといわれる通り、そのチーム運営には多大な労力が必要だ。他大学との交渉、学生委員としての仕事、練習グラウンドの確保・手配、スポッター、試合前後の審判団への挨拶など、数え上げれば際限がない。さらに、医学部は六年生までいる。各学年間の調整役も必要であろう。女子マネージャーだけでは荷が重すぎるのは事実だ。チーム全体のコーディネーター役が、ぜひ必要だ。 Aは同期の熱意を受け止め、部に残ることを選択した。Aの仕事は多面的だ。そして裏方に徹したものだった。私が上京し、練習グラウンドに顔を出した時なども何かと心配りをしてくれたものだ。試合が緊迫した展開になると、選手たちは殺気立ち、Aへの口吻が荒くなる。私は口を出さず、じっと見ていた。そして数年が経った。 昨シーズン(Aたちの最終年、卒業試験の真っ最中)、わが校は医科・歯科リーグでブロック優勝を果たした。少数先鋭とはいえ、アメフットではきつい。少人数でよく戦ったと思う。一歩間違えば入れ替え戦出場の憂き目にある厳しいシーズンだった。 その優勝のかかった最終戦が、武蔵野の面影を少しばかり残す慈恵医大グラウンドで行われた。晩秋の薄日が差す、比較的暖かい日であったと記憶する。その日は、優勝の瞬間を見ようと大勢のOB、OG、友人たちが応援に詰めかけていた。その中にAのご両親の姿もあった。後で話を聞くと、初めて試合を観に来られたとのこと。 この一戦では、我がチームの今シーズン全体を通じての厳しい気迫が相手校を上回ったのだろう。ほぼ勝敗を確定し、試合時間残り一分を切った。その時、サイドラインには、ヘルメットをかぶりフル装備をしたAが立っていた。 ヘッドコーチの指示と、グラウンド内での同期の者が、下級生が、大声でAを呼ぶ。この時Aは初めて公式戦のフィールドに立った。ホイッスルが鳴りプレーが始まる。一プレーのみで交代。Aの最初で最後のプレーとなった。試合終了後、歓喜の渦の中で真っ先にAの胴上げが始まった。宙を舞いながらAは何を思っただろうか。また、この光景を眺めたご両親は。私は胸が熱くなった。 遠目には桜花びら舞うごとき アメリカンフットボールを 花球と名付く (平成十六年甲子園ボウルにて) 道浦母都子 闘病とアメフットを両立させたAこそ、 本当の勇者という。
2007.03.17
2007.03.08
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