カテゴリ:食べ物 飲み物
日本一 大酒飲みの記録
文化十二年(一八一五)蜀山人らによって行われた酒豪戦では、約一斗(十八リットル)飲んだ下野小山の佐兵衛という男が第一位であった。 また同じ年に、千住宿の中屋六右衛門が六十歳の正月を祝う飲みくらべをした『洛戦記』一巻、絵一帳が残っているが、それによると、万寿無量杯という一升五合入りの杯、あるいは緑毛亀という二升五合入り、三升入りの丹頂鶴などと称する大杯で、少ない者でも二、三杯、多い者は五、六杯以上飲んでいることがわかる。これに参加した女性では、鎌倉(七合入り)江の島(九合入り)といった杯で一日中飲んでいたのが二、三人おり、中でも千住の菊屋おすみというのは緑毛亀(二升五合入)で平然と飲んでいたという。 文化十四年(一八一七)柳橋の万八で開かれた大飲大食会では、本所石原の美濃屋儀兵衛(五十一歳)が約一リットル入りの杯で十一杯飲んで義太夫を唸り、のどが喝いたからと茶を十四杯飲んだという記録が残っている。 天保二年(一八三一)ころ、讃岐高松で酒蒙といわれていた津高屋周蔵が、熊本からはるばる挑戦にやってきた日蓮坊主と酒戦を演じた話が『三巻雑記』にある。二人きりでは面白くないというので、自称大酒飲みを五十 人ほど集めてはじめたところ、津高屋と日蓮坊主は、玄米と塩を肴に合わせて一斗町升八合たいらげ、他の連中がのびてしまっているのを横目に、雨の降る中を傘をさし、高下駄をはいて悠々と引揚げていったという。 また『翁草』の著者神沢貞幹が実話と太鼓判と押す話がある。年代は不詳だが、柊屋甚右衛門という男が矢橋の渡し舟にのったとき、荷桶に酒を一斗(十八リットル)入れてかついできた童子が、全部飲める人がいたらただでやるとうそぶいたので、甚右衛門は手ですくいながら飲みほしてしまったということである。 最近では、明治三十九年、岡山県巡業中の常陸山門下の日本嶽が大コップに二、三杯とどんぶりで二・七リットル一気にあおり、さらに寝酒に一リットルたいらげ、翌朝けろりとしていたというので当時の新聞で話題になった。同じ力士では戦前、日本橋の料亭で二十四リットル飲んだ初代朝汐太郎がいるし、今の大鵬親方は現役時代の昭和四十四年、オーストラリアへ行ったとき、ビヤホールで小瓶四十五本空けたという。 また昭和二年、埼玉県の熊谷市で、参加費二円九十銭で酒豪戦が行われ、一・八リットルをラッパ飲みするという一、二次予選をパスした六十一歳の男性が、決勝戦で二十一リットル飲んでみごと第一位になったという記録もある。以上の初記録をいちおう信じたとすると、約一斗四升をたいらげた朝汐太郎がナンバーワンということになるが、やはりこれも飲んでいる時間などに問題があり、いちがいに断定しかねる。(擁書漫筆) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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