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南アルブスの先縦者 百瀬舜太郎『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」 昭和36年 創元新社刊(一部加筆) 南アルブスにおいても、狩猟をもって生活の糧をえていた山麓民が山地に入ったのは古いことで、史記にまつまでもなく、いつの頃からか仙人や、炭焼、岩魚釣り、岩茸採りなど、一年のうちのある期間に入るようになり、この山の人たち、とくに猟師は、原始時代から近世にいたるまで長い伝統的な生活によってえた山の知識を継承し、開拓期のすぐれた案内者として登山史上にかくれた功績を残していった。 白根、仙丈、駒、鳳凰から塩見、荒川、赤石、聖岳へ三、〇〇〇メートル級を連ねる南アルブスが、いかなる人びとによって拓かれたかをかたるだけの自信は、私にはない。かろうじて、私の知っているのは、いわゆる「甲斐ガ根」の白根を中心とした山やまの、至極大ざっぱな抄見でしかない。 日本民族の間には古くから山を神聖視する習俗があり、信仰としての登山の現象は、奈良時代に中国文明の移入による道教や仏教思想の影響により、山岳に修業することが行なわれるようになって、いわゆる修験道の発展とともに多くのこの道の行者によって名山大沢がひらかれているが、山深き南アルプスの高峰においては山頂の出土品や山麓における古文書などより推考してわずかに鳳凰山がこの山頂に屹立する奇岩を信仰の対象として室町時代にかなり登拝者があったと思われるほかには伝説的なるものはさておき、南北朝時代の山伏や戦国時代の武田勢による峠越のほかには特記するはどのものはない。 おそらく徳川時代に入って講社の流行をみるように 説なってから白根の北岳など登拝されるようになったのではないかと推察される。 いまもなおひきつづいて白衣の行者の登山が行なわれているのは、文政年間に信州諏訪の人、弘幡行者が開いた駒ガ岳のみといってよい。 また木曽の庄屋中村儀助が江戸城修復の用材として二尺角、八間を下らない黒木、五千石を白根山中より搬出の下命をうけ、この嶮峻な地域で初めてその目的を完遂した天保八年の冬、広河原で雪崩に埋没され、死に至ったことを、その覚書は伝えている。 この信仰登山や生活のためのみに入山した時代に、享保年間飯田の儒者大蔵謙斉の塩見岳(何余漫筆)と安永年間高遠藩士蔦上源右衛門の仙丈岳(木之下蔭)の登山記は登山史上珍重すべきものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年02月21日 13時19分09秒
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