山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2019/03/03(日)21:41

【信正と大久保長安】武田家のその後『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)

【信正と大久保長安】武田家のその後『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)    顕了に深く帰依したのは武田の旧臣大久保石見守長安である。堂宇建設のさいも多額な資金を寄進、甲斐に入国した長安は、長延寺を訪ね、顕了を励ましている。長安と顕了との親交が幕府に知れて、長安死後の元和元年(1615)3月、公金横領の冤罪を着せられて顕了とその嫡男の信正(教了)父子は、伊豆大島に遠島を申し渡された。遠沈には顕了の妻おままの同行を許されている。長延寺は顕了父子逮捕の直後、廃寺になり、東本願寺の教如法主の嘆願で存続を許され、化竜山光沢寺と改め、朱印20石を与えられた。顕了一族の大島での暮らしは質素だったが、平和な日々であった。顕了を慕い、9人の武田の旧臣が島へ渡ったと伝えられる。  遠島28年目の寛永20年(1643)3月4日、顕了は70歳で病没。さらに10年の歳月が流れて顕了夫人が承応2年(1653)去月2日、73歳で他界した。  三代将軍家光の13回忌の寛文3年(1663)、64歳の教了は、四九年ぶりにご赦免になり、8月11日、江戸に帰った。ご赦免になった教了とその家族は、上野寛永寺の天海上人に仕え、教了は76歳で入寂した。その子孫が江戸に永住し、現代、信玄から一五代当主の武田昌信氏に引き継がれている。     【信玄の異母弟武田兵庫助信実の嫡男川窪与左衛門尉信俊・信雄・信貞】武田家のその後『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)    信玄の異母弟武田兵庫助信実の嫡男川窪与左衛門尉信俊は、家康の旧武田家臣の採用にともない、知勇ともにすぐれていると高く評価され、禄高三百八十二貫八百分と、左衛門尉の官途、甲斐八代部下二千百十俵の領地を与えられた。  天正19年(1590)1月、信俊は武州金窪琴1千石の領主に栄進した。いまの埼玉県児玉郡上里町の周辺である。信俊は着任後、亡父信実の菩提寺として比企郡横田村に輪禅寺を創建、母漆戸夫人を中興開祖として母の法名に因んで崇栄山陽雲寺として菩提を弔った。  信俊は家康の仲立ちで三人目の夫人として公卿の正親町三条公伸の息女を妻に迎えた。慶長6年(1601)に嫡男信雄が生まれた。寛永3年(1639)2月14日、信俊は家康・秀忠・家光の三代に仕えて76歳で没した。  遺児、信雄も名門武田の裔に恥じない人物であった。のちに従五位越前守となり、加増を含めて二千七百石の知行を与えられた。信雄の子信貞は四代将軍家綱に仕え、家綱の命令で川窪の姓を武田に復し、五千七百十石の知行取りとなった。その後の子孫も一族縁者ともに扶け合って苦難を乗り越え、明治の夜明けを迎えた。  

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