山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2019/03/05(火)13:11

武川衆 米倉忠継

米倉忠継 本領安堵  米倉忠継は天正十年(一五八二)十二月七日に円井郷四三〇貫文を安堵された。同じく武川衆の領袖折井次昌も、同日付で折居南分ほかで一四八貫四〇〇文を宛行われた。  天正十三年(一五八四)八月、家康が信州上田の真田昌幸を攻めるに当たり、忠継は次昌とともに武川衆を率いて出陣したが、この時武川衆はその妻子を証人として駿河興国寺城に送り、二心なきを誓った。 また天正十三年(一五八四)十一月、家康の老臣石川数正が豊臣氏に奔った際、家康が家中の歴々に人質を要求すると、武川衆は率先して妻子を駿河に送ったので、家康は翌年正月十三日に、武川衆に対し次の感状を与えた。   今度、証人の事申し越し侯の処、各ミ馳走有り、差図の外、兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し侯、殊に去る秋の真田表に於ては、万事情(精)を入れ走り廻り候旨、大久保七郎右衛門披露し候、是れ亦悦喜に候、委細両人申すべく候、恐々謹言。    (天正十四年)正月十三日   家康 (花押)      武川衆中                           (『古文書集』)    大久保七郎右衛門とは忠世のことで、上田城攻めに際し、武川衆所属の部隊の長であった。忠世は、武川衆の奮戦振りに深く感じ、これを家康に披露したのである。文中の両人とは、軍監の大久保忠隣・本多正信をいい、主命を挙げて武川衆に次のような懇書を与えた。   今度、証人の儀について、平七・成吉よりその断り申し越さるるの処に、御差図のほか、若衆まで要子、駿州へ引越し慌て、無ニ御奉公あるべきの由、すなわち披露におよび候の処、大形ならず御祝着に思召し候。殊に去る秋真田に於て、大久保七郎右衛門申上げられ候、毎度徴無沙汰存ぜられず候の間、御喜悦成され候、これにより各々へ御直書遣わされ候、いよいよ御奉公御油断なき体、肝要に候、恐々謹言    (天正十四年) 正月十三日  (大久保忠隣)            大 新十郎(大久保忠隣) 岡崎ヨリ            本 弥八郎(本田正信)     武川衆中御宿所                         (『武家事紀』)   こうした、家康に対する武川衆の忠誠は、家康にとり大きな強味であるが、秀吉にとっては無視し得ないことであった。家康が、信長全盛の時点にあって武田遺臣を懐柔保護し、戦力としたことはその先見を示す好例で、これが家康政権実現の布石となるのである。    天正十七年(一五八九) 忠継は円野・三吹・牧原・白須諸郷の内で一、一〇〇石を知行した。  天正十八年(一五九〇) 八月、小田原役の後、家康の関東入部に随い、武蔵大里郡鉢形領御正郷 において堪忍分七五〇石を与えられ、甲州の本領から移り住した。  慶長四年(一五九九)四月二十日、 五十九年の生涯を終わった。法名を珠元という。   高野山引導院過去帳   高野山引導院過去帳の忠継の牌には、 珠元大居士 己亥卯月廿日  施主武州大里郡御正郷米倉六郎右衛門尉種継立之 慶長五年卯月廿日   とある。己亥は慶長四年である。実子のない忠継は、弟種継を養子とし、種継は養父忠継の一周忌に当り、引導院に立牌したのである。 この日、武田以来の盟友折井次昌も、  珠元大居士 己亥卯月廿日死  施主折井市左衛門尉建之 慶長五年(一六〇〇)卯月廿日   と忠継の菩提のために同院に立牌している。

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