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富士山と周辺火山の噴火・災害記録(参照、「日本の火山災害」村山磐氏著1977著ほか)
○718年頃(養老二年頃) 噴火 ○781年(天応元年)8月 噴火一降灰 ○800~801年(延暦十九~二十年)、山頂において噴火 ○800年(延暦十九年)四月十五日噴火、このとき猿橋溶岩流流出か 「……去る三月十四日(新四月十五日)より四月十八日まで、富士山の山頂自ら焼く、昼煙気によって暗冥、夜火光によって天を照らす、其の声雷の如く、灰雨の如く下る、山麓の川水皆紅色なり、……(日本後紀) ○ 826年(天長三年)、噴火。「冨士山や焚く(寒川神杜目記録)」 ○ 853年(仁寿三年)、異常? ○ 858年(天安二年)、異常? ○ 859年(貞観元年)、異常? ○ 864~866年(貞観六~七年) 北西山腹において噴火 864年六月に噴火し、火山砕屑物を多量に噴出。また、青木ケ原溶岩を流出し、北西に流れたものは木栖湖に達し、また当時、「劃の海」と称した湖を精進湖と西湖に二分し、北東に流れたものは吉田付近に達する。この溶岩流で人家埋没、湖の魚に被害あり。「……駿河国富士大山、忽ち暴火有り、土礫石硫れ、八代郡本栖並びに剗(セ)の両水海埋まる、水湯の如く熱せられ、魚皆死す、宅に居る百姓、海と共に埋まる。-…・(三代実録)」 ○ 870年(貞観十二年) 噴火 ○ 932年(承平二年) 噴火一浅間神社焼失 ○ 937年(承平七年) 噴火 ○ 952年(天暦六年) 噴火 ○ 993年(正暦四年) 噴火 ○ 999年(長保元年) 噴火 ○ 1017年(寛仁元年) 噴火 ○ 1020年(寛仁四年)~1059年(康平二年) 噴火 ○ 1033年(長元五年) 噴火 ○ 1083三年(永保三年)三月二十五日、いずれも噴火。 ○ 1181年(養和元年) 崩壊 ○ 1252~1266(建長四~文永三年)、噴煙 ○ 1331年(元弘元年) 八月十九日、地震、崩壊 ○ 1338~1353(延元三~文和二年) 、噴煙 ○ 1511年(永正八年) 噴火 ○ 1560年(永録三年) 噴火 ○ 1627年(寛永四年) 噴火 ○ 1700年(元禄十三年) 噴火 ○ 1707年(宝永四年)十二月十六日 大噴火 ●十二月十六日(旧十一月二十三日)から十二月三十一日(旧十二月八日)までの半月にわたって南東山腹の火口(宝永火口)において大爆発。この大 噴火は、江戸にまで次のような影響を与えた。 ●十二月十五日(旧十一月二十二日)、十四時頃から地震頻発約三十回 ●翌十六目、十時頃爆発、強い空振を感じる(山麓富士郡では気絶者もあった)。このとき黒煙を発生する。 ●十三時頃から降灰があり、十六時頃夕暮のように暗くなる。夕刻から降灰が一センチほど積もる。 ●十七日、五時頃から十時まで断続して空振強く、南西方に電光が見える。二十時頃やや強い地震が発生し、以後ときどき弱い地震が発生する。南方に電光、またときどき雷鳴があった。 ●十八日、南方においてときどき鳴動があり、十四時頃から空の半分は曇り、南東の空は霧が発生したようになって近くの家も見分けにくい程になる。十六時頃から降灰があって、翌朝三時まで続く。 ●十九日、九時頃から黒煙が次第におおい、前日よりも大きい粟粒大の降砂があった。 ●二十日、十六時頃から黒い降砂。夜中にときどき空振があり、雷鳴も少し聞える。 ●二十一日、九時頃空振が強かった。夜中に南西方でときどき雷鳴があった。 ●二十二日、二十三時頃から降砂。 ●二十三日、三時頃にときどき空振があり、また、しばしば電光や雷鳴があった。二十二時頃から約一時間少量の降砂があった。 ●二十四日(旧十二月一日)、降砂。 ●二十五日、降砂。 ●二十七日、朝、隣家もわからないほど煙霧が濃かった。十二時すぎ地震があり、十二時頃と夜半に降砂が少々あった。 ●二十八日、四時頃弱い地震があったが、降砂はその後止んだ。 ○1708八年(宝永五年)二月二十四日噴火? ○1709年(宝永六年)一月十六日、噴火? ○1809年(文化六年)十月三日、崩壊 ○1825年(文政八年)七月二十六日、鳴動。 ○1834年(天保五年)五月十六日、山津波。 ○1939年(昭和十四年)十月、地震群発。 近年、富士山は静かだが、まったく休止しているわけではなく、もし富士山が噴火したなら、束京にまで宝永大噴火のように灰や砂が降り、交通機関などに大障害を来たすことと思われる。 宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より) <すさまじい噴火のありさま> 宝永の噴火は文献が多いので信じられることだ。十一月二十一日、相変らずバカ陽気でたるんでいた、山麓の人々の間で、気のつく人は、すでに遠雷のようたとどろきを地の底からときどき感じた。樹海のあちこちからは、蒸気が上がりはじめていた。気づかないような徴震は、すでにたえまなくおこり、軽震がこれに加わった。 ヒズミ地震計とか、ベニォフ地震計といった高感度の地震計では、一日に何千回も徴震をキヤチッして噴火の予知もできただろう。 宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より) <昼日中提灯をつけた大噴火> 二十二日、朝から富の富士山は「腹の底」にこたえるような鳴動をはじめた。「ゴロゴロゴロ」と、山鳴りのはげしくなった午後二時頃からは、二十三日の朝までに家の倒れるような地震が相ついで三十数回もおこった。 この間にも軽震は絶えまなくおこり、ついにお山は火を吹き出し、樹海といわず、溶岩の隙問といわず、ボイラーのフタをとったようにはげしい白煙をふき出した。このため木の葉は爛れ(ただれ)、穴へもぐっていたヘビやカエルも、冬眠をやぶられてノロノロと這い出しては熱気で茹(ゆだ)ってしまった。 もうこの頃になると、翅のある鳥はとっくにとび去り、足のある野獣も御坂山脈の方へ姿をかくして、お山はもうからっぽだった。 奥秩父の山火事のとき、とび出してきた数百頭もの山うさぎをアミでとったという話もある。富士山の噴火ともなれば野獣の、のがれていく姿も多く見かけた。 二十三目の十時頃、大地震、山鳴りというすさまじいるつほのなかで、ついに富士山は、雲をつき破って大火焔を噴きあげた。「ド、ド、ド、ドヵーソ」「ド、ド、ド、ドカーソ」耳の障子は破れんばかり、大地はゆれる、山は鳴る。十二、三キロ四方に真赤の火山弾がとび散って、たちまち甲、駿、相模は夜昼灰の闇にとざされてしまった。 火山灰がまるきり太陽の光りをさえぎってしまったのだ。ものすごい降灰で、江戸も昼日中まっくらやみ、ましてや富士山のおひざもとはまっくらけで、鼻をつままれても分からないので、日中、提灯(ちょうちん)をつけて歩いた。 灰の降ること二十日間、この問富士山はただ暗やみの中で火を吹き続けた。ともかく、十二月中旬にいたるまで噴火は続いたのだ。 ようやく人の顔が見えるようになった頃、富士山麓はまさに灰色の底にすっぽりうもれていた。家はつぶれて灰にうずまり、田畠は溶岩でゴロゴロ、これに灰がニメートルも三メートルもつもって、まったく死の世界であった。 宝永の大噴火で、スマートだった富士山の胸のあたりには、デッカイたんこぶ宝永山ができ上っていた。 幕府は関東一円に灰を降らせた田畠の復旧と、住む家を失したった農民に対して、救済するために、一万石に対して二百両(いまの五百万円)当たりの金を拠出させた。十万石の大名は、いまの金で二千五百万円も出した勘定だ。石高百石取りの下級武土まで二両を拠出した。この金、〆て四十八万両にのぼったが、幕府は十六万両を出しただけで、三十六万両は将軍さまの台所へまわってしまった。 (江戸時代史) 宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より) <宝永大噴火の日記(富士吉田師職田辺安豊記)> 宝永四年十月四日、大地震おこる。二夜三日神事をおこなったところで神の告げあり。大火来ると…(以下分かりやすくして付記した) ●二十二日、暮六つより(いまの午後六時前後)地震数十回おこる。暁よりは地震の数はもうかぞえられないほど頻発する。 ●二十四日、巳の刻(午前十時)頃、天よりまるい鐘ほどもある光がくだるとみるや、黒煙山のようにのぼり、富士山が鳴動し轟音を発すること、天上の百雷を一つに集めていちどに落ちたほど。稲妻もしきりにおこり、みな肝をつぶしたほどであった。酉(夕方六時)の刻より雷光はいっそうはげしく、火烙は火の玉が逆に天へ上るようで、このため夜が昼のように赤々と照らし出した。 ●二十四日、巳の刻(午前九時~十一時)、煙が四方へ墨をふりまいたようにひろがり、須走は石と砂が降って八十六戸の家はすべて焼かれたり土に埋もれてしまった。降灰の深さは約三メートル、このため村人は逃げ去って無人の村となった。女子はナベ、カブを頭にかぶって四方へにげたが、真赤にやけた火山弾が「ゴチーソ」とぼかりナベをつき破って頭から腹へとびこみ、命をなくしたもの、重傷を負うもの数しれず、戌の刻(夕方六時~九時)には、又々家のつぶれる大地震でのこった家はすべてつぶれてしまった。音も光りもますます激しくまさにこの世の生地獄のようだった。 ●二十五日、朝すこし陽が射したが又昼頃から曇った。 ●二十六日、師職、神官たちが集って、各浅間神杜につめて、禁足のまま御山の安全といかりをしずめる御祈祷した。そのうち西風がでて黒煙もようやくはれ、鳴動も次第におさまって来たので大祝詞をあげた。近隣、遠村を問わず参拝の民衆は、稲麻竹葦(からだがくっついてもみくちゃ)のように雲集して祈りをささげた。 ●二十七日、けむりはふたたび空高くのぼり午の刻九つ(十二時)頃に薄陽がさした。 ●二十八日、鳴動、光りもやわらいで、大鳥居や富士の砂礫の上で貴賎群衆、悪人、善人のくべつなく一心にお山へいのりをささげた。 ●三十日、みそかの戌の刻すぎ大地震がおこり、震動、煙も特別大きく、火の玉があがって溶岩がどっとおし出してきた。 ●十二月一日、日の神を朝より拝む。 ●二日もおなじ、 ●三日の夜は曇ったまま四日をむかえて暁に雪が降って白くなる。又巳の刻(午前九時三十二時)大地震がおこって夜半までゆれる。火の玉はますます激しべ光りきらめいた。五日、ことに南風にて昼すぎまで天地鳴動した。しかし申の刻(午後三時~六時)の下刻より急に静かにたった。 ●六日、七日朝から明るい太陽をのぞみそのありがたさに祈った。 ●八日、地震はまたも度々おこり、子の刻(夜中の十二時)ばかりには特に大きくゆれた。火の玉も千たびも上った。さるほどに神風のせいか、寅の刻(午前三時~六時)ようやくおさまった。 駿東郡は、足柄より富土山頂まで、村里も草木も焼かれて砂だけの一望灰色にとざされた。鎌倉でも三十センチから九〇セソチの灰がつもった。 河の水も井戸水もたえて、のどを潤るおそうにも一滴の水もない。人々は江戸高井戸、八王子、谷村ときいて富士へ登るべく、新しい宝永山をみたくて集ってきた。このとき山中、長池、平野は灰の降って以来、草木は絶えて出でず。以上すさまじいさまがよく綴られている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月29日 11時03分17秒
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