カテゴリ:カテゴリ未分類
扇屋の管狐 北杜市武川町 口碑・伝説 『武川村誌』一部加筆 牧原の中ほどに扇星の屋敷跡がある。今からおよそ二〇〇年ばかり前、寛政年間のことである。扇屋は本姓を久保田家と称した。扇屋といったのは、事件後の屋号である。久保田家は、寛政以前は相当栄えていたが、為右衛門の時、別に定まった職業もないため、青年時代への憧れから江戸へ出かけた。江戸へ行っても、田舎者の彼を雇ってくれる者はなく、といって、親や縁者の反対を押し切って成功を夢みて、この地に来たのであるから、ただ漫然と帰国もできず、遂に吉原の扇屋という遊女屋の妓夫(客引き男)となった。扇屋には当時花扇という美しい花魁がいた。為右衛門は、この花扇といつしか懇ろになり、年期が明ければ、夫婦になることを約して、ともに一生懸命働いていた。花扇は手腕があるので、契約より早く年期が明けて、いよいよ二人は夫婦になり帰国することになった。しかし為右衛門は一人で約束したのであるから帰国しても果たして、親や親戚の者が承知するか否か危ぶまれた。そこで彼は花扇を残して一人で帰国し、すっかり準備を整えて改めて花扇を迎える約束で帰国した。為右衛門は帰国して親や縁者にこのことを語り賛成を求めた、が一同は皆反対してしまったので非常に困惑していた。 一方花扇は江戸ですっかり仕度を整えて荷物を送り出した。そして自らは草鞋脚絆で慣れぬ旅路を甲州へと発足した。途中、為右衛門のことを一時も思わぬ時はなかった。そうして発日かを過ぎて、やっと牧原の為右衛門の家に辿り着いた。為右衛門も心ひそかに、花扇の来るのを待っていたが、一族の反対でどうすることもできず困っていた。 親族の者は相談して、為右衛門は残念ながら、江戸から帰国の途中、病にかかり死んだと偽り花扇を追い返す手筈にしていた。しかし、花扇から送り届けられた数多の奏しい衣服調度など惜しくて所々に隠して花扇の来るのを待ち受けていた。 そうこうするうちに花扇は為右衛門の家へ到着した。彼の女は衣服を改め、ことばもていねいにあいさつした。しかしそこに恋慕の念にかられた為右衛門の姿が見えないので不審に思い「為右衛門さまは?」とたずねた。するとかねて用意の家人のこたえるよう、「為右衛門は残念ながら急死してしまった」と告げた。これを聞いた彼の女の驚きようは、ひととおりではなかった。俄かに作った墓へ花房を案内して「これが為右衛門の墓だ」と告げた。花扇は非嘆やる方なく、泣く泣く墓前にひざまつき昔の思い出を語りだして、去ろうともしなかった。花扇はほとんど半狂乱の姿で、もと釆た道を引き返し、穴山橋の辺で通りがかりの旅人に為右衛門のことをたずねた。すると為右衛門の死は全く偽りであることを知った。この恋の結ばれないことを悟った彼の女は非常に憤り、懐中より一本の小さな管を、取り出した。そして「これを為右衛門の屋敷に投げこんでください」と旅人に託した。そして自分は橋上から身を躍らせて渦巻く河中へ飛びこみ、あえない最期を遂げてしまった。 一方、旅人によって投げこまれた一本の管は、狐となった。その狐のたたりのため為右衛門の家はだんだん衰微し荒廃するばかりであった。そのうち、運の悪いことに為右衛門の家は火事になり焼失してしまった。加えるに彼は癪病になって悶え死んだ。そればかりではない。そのあとへ他の村から左内という易者が移り住んだが、間もなく滅びてしまった。次に新犀という旅医者が来て住んだが、それも、一時、繁昌したが、狐憑(つ)きとなった。続いてこの屋敷で料理屋を開業した者が、あったが後に焼けてしまった。また花扇が持ってきた物を多少でも、使用した老は皆それぞれ災難を被ったということである。 狐憑きになり、あるいは病気になった者は皆重態で苦しむかと思うと、俄かに気分がよくなったり、また重くなったりしたという。また寝ていても急に大声を発して「何々どん、お客様の煙草盆に火が無いよ」、「早よ、早よね」など江戸のことばや花魁ことばで、口走ったということである(北巨摩教育会編)。
富士塚の狐北杜市武川町 口碑・伝説 『武川村誌』一部加筆 中山の南端、三吹字向山に一つの塚がある。形が小さく変形もしているが、村人は昔からこれを富士塚と呼んでいる。この塚は数百年前、現在の所有者小野忠則氏の先祖が上三吹区内の文珠の森から数匹の狐を移し小野家の祝神として祀った。以来同家では初春の午の日を卜し祭祀を行い霊験にあやかろうとした。伝えられるところによると、その霊験が、あらたかであった例が何度かあったという。 物が紛失したとき、みつけものがあるときこの狐に祈ると必ず三日以内に出てきたりしたものであった。家族に病人が出そうな時、天災の起きそうな時、きっとこの狐は上三吹の裏を流れている大堰の土手に来て、異様な叫び声を発して村人にそれを予告した。それゆえこの富士塚は小野家のみの祝神でなく村人全体の信仰を集めるにいたった。 次の事実談は村人に今なお語られて、そのたびに当時を想起させる凄惨な物語である。 明治三十一年の大洪水の時である。八月下旬から降り始めた雨は、日を経るに従って猛威を加え、いつやむともなく釜無川は濁流を川幅いっぱいに張らせて轟々と流れていた。九月に入って、きょうはもう五日となった。この日は雨脚は緩く、八ツ刻(今の午後二時)には日の光さえ見えて、村人はやっとホッとして愁眉を開いた。これで幾日も閉じこめられていた雨の日も終わるものと思った。ところがその安心も、ほんの束の間で、午後になると雨はますますはげしく降り続け、加えて強い風さえいてきた。村人は何とはなしに不安の念に駆られた。夜にはいって天帝は、その怒りをいっそう烈しくし乾草の鳩を押しつぶし物置を吹き飛ばすなど物凄いものだった。 人の不安はますます募った。風に対する不安は何か落着きのない、いらいらしたものだった。それに対し水に対する不安には何か心強いものがあった。なぜならば、村の上手には、まだ仕上がって間もない何百間もの大堤防があるのだ。どんな大水がこようともあの堂々たる堤防がくずれることは、あるまいと彼らは固く信じていたからである。言い知れぬ安を抱きながらも村人たちは皆床についた。外は真の闇で不気味に雨と風とが晦曝する音だけが渦巻いていた。その昔を耳にしながら皆眠りに落ちていった。 九ツ(今の真夜中)近くであろうか?小野家に縁のある小野某老女は、年寄の常で寝つかれないまま床の中で煙草を吸っていた。嵐の音を耳にしつつ煙草を吸っていると老人の耳に、かすかながらも異様な音が聞こえた。風のために、その昔は聞こえたり打ち消されもした。それは何かきしる音のようにも聞こえた。なおも耳を澄ますと、また前よりも一段と強く何かを訴えるように長く余韻を残して聞こえるではないか。 彼女はパッと起きた。若しかすると………と思いつつ外へ出た。また一声「………」 「富士塚さんの声だ」 「そうだ堤防がきれるのだ」 こう直感した彼女は家の中へ駈けこんで息子の太一を起こして堤防を見に急がせた。太一が堤防に着いた時はすでに遅かった。さしもの頑丈な堤防も一角を破られて水は、ずんずん増しつつ村へ向かっていた。太一は、ころげるように引き返すや、半鐘をめった打ちに叩いた。 この鐘の乱打に掛、たちまちのうちに混乱に陥った。泣く者、叫ぶ者、わめく者、しかも嵐はますます咆え狂う。村人が安全の地へのがれた直後、村は満々たる濁流に洗われていた。 太一が鐘をならしてから、ものの三〇分とたっていなかった。 村人たちは、太一の功を口々に、讃えると共に、富士塚さんの霊験に、いまさらながら驚いて感謝の念をいよいよ高めたのであった(北巨摩教育全編)。 文殊菩薩 狐と泥鰌(どじょう)北杜市武川町 口碑・伝説『武川村誌』一部加筆 上三吹地内新屋敷の北方に、村人からお文殊原と呼ばれている流れ残りの丘がある。文殊菩薩は昔からこの地にあったが、明治三十一年九月の大水害の際流されて、今は長松山寓休院の境内にある文殊堂に祀られている。毎年陰暦七月二十四日の夜から二十五日に、かけて上下三吹で祭典を行っている。この菩薩は昔から生狐といわれている。村内に大火事や水害やその他の別状のある前には、必ず村内を異様な声を出して囁き、このことを事前に知らせると言い伝えられている。この文殊堂の前には石で作った大きな器が備えてある。この器には、泥を入れて常に数多くのどじょうが放ってある。これは菩薩信者が種々の祈願をかけてその霊験があったとき、お礼にどじょう(泥鰌)を、その人の 年齢の数だけ放つことになっているからである。疵はこの水をつけると必ず治るといわれている。 昔、この地の者が小狐の群れ遊ぶのを見て、一匹を捕えて付近の者と火炙りにして食べた。その後、その狐は文殊の狐であったということを知り、日ごろ薄気味悪く思っていた。たまたまその人が原へ堆肥をつけて運搬途中、道端の大きな松の木の根元で古狐にあった。狐はじっと彼の行き去るのを見ていた。彼は非常に薄気味悪く感じ仕事をすませて家へ帰った。するとわが家の床下に先刻の狐がうずくまっているではないか、彼はとても、驚いた。 その日の夕方彼の家で沖炉に、いっぱい火を焚いて餅掻きの用意をしていた。ところがこどもが俄かに大声で泣くので、あわてて駈けつけて見ると、体一面大火傷をしていたのであった。その大火傷の原因が、どうも不審だったので付近の易者に占ってもらうと、文殊の狐のいうのに、「わが子を火炙りにしたので、彼の子も火炙りにしてやろうと思い、毎日、良い機会を狙っていたが、きょうこそ漸く目的を達し、この上もない喜びである」といったという(北巨摩教育全編)。 鰻を喰うと目が潰れる 北杜市武川町山高 口碑・伝説『武川村誌』一部加筆 山高の幸燈宮の祭神、稚日要命(わかひるめのみこと)は、女ながらも武勇並びなき軍神で、ある時騎馬で出陣し、ある沼辺で敵の大将と組討ちになり、沼の中へ落ちてしまった。沼は泥が深くて、どうにもならなかった。すると泥の中から何にか命を押し上げるものがあるではないか、命は、これに力を得て有利な態勢になり敵将を倒すことができた。この為からくも戦に勝つことができた。その命を下からおしあげてくれたものは実は直径二〇センチもある大鰻であった。 こうして氏神が鰻に助けられたので、氏子である山高の村人は鰻を喰うと神罰があたって目が潰れるといって、誰一人鰻を喰う者がなく、捕えた鰻は全部、幸燈神社前の池に放したという。 『甲斐国志』(唐土明神の項)にも祭礼には、鰻の餌である、どじょうをあげ村人は鰻を食べないということが載っている。 「祭礼ハ九月中ノ九日、前夜初更ヨリ庭燎ヲ焼キ四更ニ至リテ供物ヲ献ズ、其ノ内ニ泥鰌汁アリ一社ノ旧例ナリ、又村人古ヨリ鰻ヲ食ハズトナン。」初更午後十時、四更午前二時 今から百何十年の昔、この山高に源三郎という村一番の強情者がいた。この源三郎が三吹に奉公しているとき、川干をした際に沢山の雑魚をとった。その中にも鰻が数匹まじっていた。そしてその雑魚で一杯やるのが例であった。 仲間の者たちは源三郎の強情を知って、面白半分に「源三郎何ぼう強の者でも、山高生れの悲しさに、このうまい鰻は喰えんなァ。源三郎は、あとの「かす」みたような雑魚だけ喰っていりや、いいや」、また一人は「目が潰れちゃ困るから、その鰻はこっちのもんだ」また「どうせ山高の源三郎はまずいもんで我慢しろやい、うまいのはこっちの係だ」と口々に言うので源三郎も酒が段々まわると口惜しくなって「俺だってうまいものを喰ったって悪いことあねえや、鰻を喰ったって目が潰れるもんか」と本気になって、ほんとうに喰う気になっ た。しかし腹の中では、いい気拝もしない。するとまた他の一人は「ほら、なんぼう強気の源三郎でもやっぱり目が潰れるのは、おっかねえや」という。 源三郎は、「はうれ、みんなよく見ていろ」と言いつつ箸を手に取ったかと思うと、前手にあった鰻の切を、ついに口に入れてしまった。 「な、目が潰れんら(でしょう)」と男の意気高々にその夜は引き揚げて行った。 二、三日たつと源三郎の目は、霞がかかったように段々見えなくなった。そして今日よりは明日、明日よりは明後日というように悪くなってとうとう見えなくなってしまった。 源三郎はいよいようろたえた。そしてこれは、まさしく氏神さんの祟りがあったのだ。このうえは幸燈神社に行って、その罪をあやまり、ぜひ今一度目が見えるように祈るよりほかはないと思い熱心に祈願した。三、七、二十一日の満願の日に、ようやくおぼろ月夜程度に回復し不自由の目で暮らしたという。 その後お宮の前の池には、もっともっとたくさんの鰻が氏子によって放され、社殿には鰻の絵馬がたくさん奉納された(高齢者ふるさと学級編) 丑の刻詣り 山高 北杜市武川町 口碑・伝説『武川村誌』一部加筆 山高の豪族山高氏が、武田信玄に従い信濃の河中嶋合戦に参加したころ、出陣するときには、まず村内から穀を徴発して兵糧の用意をした。 そして氏神、唐土大明神の境内で徴発した穀でお粥を煮て神に供え、また将士も共に食べて武運長久を祈った。さらに握り飯を作って兵糧として戦に臨んだ。ちょうどその時刻が丑の刻であったという。 このことが、三もとになって、後世秋のお祭りには「丑の刻詣り」ということが行われる。このときは、戦国時代と同じように、村内から集めた穀で、昔のお粥と握り飯をまねて、甘酒と握り飯をつくる。祭りの夜は丑の刻に、神官がきて祭礼をし、この時刻に参詣をした者には、甘酒と握り飯を振る舞うということがある。 また、当日は夜半より氏神さんの庭に、かがり火をたき、大鍋をつるし、湯をわかし、この湯でみんな目を洗い清め、一年中、眼病にかからぬよう祈願したものである(北巨摩教育会編)。 幸燈(こうとう)神社 唐土(からど)大明神) 山高『武川村誌』一部加筆 天照大神の御妹にワカヒルメノミコトといって、女神であるが非常に勇ましい神様がおられた。ある日機屋で機を織っておいでになった。傍に天照大神(アマテラスオオカミ)が、これをご覧になっておられた。 すると、そこへ天照大神の御弟の凶暴さで有名スサノウノミコトが、血の滴る馬の皮を提げて現われ機屋をめがけて投げつけた。大神は、驚いて、天岩屋へ入り岩戸を立てて、おかくれになったが、ワカヒルメノミコトは女ながらも敢然とスサノウに組ついていかれた。しばらくの間、お二方の格闘が続いたが、やはり男の神様の方が強く遂にワカヒルメノミコトは、この世を去り給うた。 山高では、ずっと晋に、このワカヒルメノミコトと大己貴命(大国主命の別名)を合祀して、村の氏神とし祀った。その祀る神社を幸燈宮といった。幸燈とは幸日ということで、天照大神が万民を遍く照らすような恵みの光であるという。 山高氏 山高という集落ができ、幸燈宮が祀られてから、かなりの後、今の実相寺の付近に武田太郎信方の後裔で、土地の豪族山高氏が居を構えた。 そして氏神として武田氏の祖、新羅三郎義光を崇拝した。義光は源義家の弟で、生まれながらに、常人と異なるところがあった。義光が稚児のとき、父頼義は義光を伴い子の出世を祈願しに新羅神社へ参拝したことがあった。 新羅三郎義光 新羅神社というのは、昔神宮皇后が三韓征伐の時、新羅王家秘蔵の鎧、兜をぶんどり、園城寺へ奉納なさったのを、園城寺で寺の守護神として境内へ祀った神であった。この神社の神主が義光を見て「この子は立派な子だ。武士として円満具足の相をそなえている」といって抱き上げ、白あやに菱の模様のある打ち敷き布をかぶせてくれた。義光はこの布を、かぶったまま家に帰るまで、泣き声一つ出さずにすやすや眠り続けていた。これによって義光は新羅三郎と名付けられ、武田氏は菱を家紋とするようになったという。 山高氏(孫兵衛親重)は幸燈宮に、遠祖新羅三郎義光を合祀して、唐土大明神といった。これは彼が、先祖の義光を非常に敬っていたからである。新羅三郎の新羅は、唐の地にあるという意味からであった。 現在も、山高の氏神は、幸燈宮または唐土大明神といって祭神はワカヒルメノミコト、大己貴命、新羅三郎義光の御三方である(歌田昌翰稿)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月29日 11時14分58秒
コメント(0) | コメントを書く |
|