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2019年04月06日
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カテゴリ:山梨県の著名人

東京タワーを設計した櫛形町(現南アルプス市)の内藤多仲(たちゆう)

 

<「明治・大正・昭和の郷土歴史」手塚寿夫氏・清水威氏著>

 

 日本耐震建築の権威、早稲由大学名誉教授内藤多中は春秋の彼岸はもとより、帰郷するたびに、菩提寺円宝寺(櫛形町)の先祖の墓前にぬかずくのであった.みなりを飾ることのない素朴そのものの内藤博士夫婦は、郷里中巨摩郡櫛形町曲輸出身の至宝とされている。

 郷里の小学校で抜群の成績をのこし、「神童」とうたわれた多仲は、没落した生家にあって、両親の必死の努力により甲府中学校・第一高等学校・東京帝国大学工学部へとすすんだ。刻苦力学の年月であった.三井本家の書生として住みこみ、家庭教師をもしていたようである。

 明治43年(1910)東大工学部建築学科を卒業し、その後大学院をへて、早稲出大学工学部建築科の講師となり、昭和32年(195770歳で停年退職するまで、早稲出マンとして生きている。

 東大の卒業論文が「耐火建築」、大学院の研究テーマが「鉄骨を主する建築の研究」であり、やがて東京タワーという世界一高い鉄堵(333メートル)を設計・建設するにいたる。昭和33年12月完成の東京クワーは、毎秒90メートルの風速に耐え、関東大震災の二倍の規模の地震にも耐えられるように設計された。

 多仲はこのほか「大阪通天閣」・「東京産経会館」・「日活国際会館」など数えきれない建築物をのこした。また彼は、早稲田マンとして「早大図書館」・「早大大隈講堂」を設計し、さらに故郷の「山梨県民会館」や「山梨県庁」も設計した。

 多仲は、郷里櫛形町を忘れることはなく、「曲輪田のおじいさん」として、かつての母校でもよく講演している。あるとき、多仲自身がフタをかぶせたボール箱の上に乗り、「フタがなければこの箱はつぶれる。だがフタをすればこの通り、わしが乗ってもこわれない」と、生徒に実験してみせたという。耐質建築の極意を話して聞かせたものであろう。

 早稲出大学では、昼夜を問わない講義と研究から「火消しポンプ」といわれ、「人間機関車」ともいわれた.

その多仲が座右の銘としていたのが、「高く彼岸に登らん」であった。故郷の母校櫛形中学校体育館に、彼の自筆によってそれが掲額されている.

 昭和37年、櫛形町名脊町民に推され、3911月には多件の胸像が櫛形中学校正門前に建てられた。郷里の曲輸出部落の入口の大和川の永久橋の建設にも物心両面から尽力している。

 わが国建築学界の権威でありながら、外観をかぎることなく郷里とともに一介の町民として生きた多仲に、学ぶべきところは多い。






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最終更新日  2021年04月29日 18時22分44秒
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