山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/25(日)13:27

山形大弐の歴史 苦しい江戸の生活

山縣大弐(23)

山形大弐の歴史 苦しい江戸の生活  宝暦元年の夏か終わろうとしていました。大弐は、妻の大きな腹を気にしなから笹子峠を越えました。苦しい峠越えであったに違いありません。途中何度も休みながら頂上にたどりついた時には、妻はぐっしょりと汗をかき苦しそうでした。  「だいじょうぶか、苦しそうだな」  大弐は、妻をいたわりなから盆地の方を眺めました。はるかに見える甲府盆地は、峠の霧にはばまれて模糊としていました。それでも、雲の岡目から盆地の風景を望むことができました。妻は無言のままいつまでも遠くを眺めていました。  江戸に着いた大弐は呉服町の喜三郎方に身を寄せました。妻は、自分の兄の斎藤左膳の所にいきたいといいましたが、大弐は首を振りました。身内の者に厄介をかけ、迷惑になることを嫌ったからでした。  大弐は名を洞斎(どうさい)と改め、喜三郎の離れを借りて医業をはじめました。江戸っ子は物見高いから、はじめのうちは繁盛しましたが、そのうちにだんだん減り、やがて、一人の患者も現れなくなりました。大弐はしかたなく、今度は子ども相手の塾をはじめました。 これも繁盛したのは最初だけで、結局は一人の子どももこなくなってしまいました。大弐はそんな生活がたまらなくなって、時々奇声を発し気をまぎらせていました。すると通行人が祈祷師と間違え、お払いを頼みに来たりしたといわれていました。  そんなある日、左膳夫婦がやってきました。二人か江戸にきていることを知って 「どうして私のところにこないのだ」 左膳は、妹の大きなお腹を見ながら文句をいいました。左膳の妻も同じように大弐をなじり、ことばを続けました。 「いつ生まれるかわからないような大きな腹をしているのに、 一体どうするつもりですか。私か預ります」  大弐は、 「自分も医者のはしくれ、妻のお産の面倒くらいは見られます。」 といって頑張りましたが、左膳夫婦は強引に妻を連れて戻っていきました。  妻は間もなく女の子を生みましたが、病弱で育ちの悪い子でしたから、歩けるようにならぬうちに死んでしまいました。子供は斎藤家の墓に葬られました。   山県大弐の歴史 故郷に帰り墓参す    妻は、子どもか亡くなってからもなかなか戻りません、兄の斎藤左膳の家にいついてしまいました。大弐との貧乏暮らしが嫌になったのでしょう。  大弐は、娘の死を機会に一度故郷に戻ることにしました。自分の生き方に疑問を抱いたからでした。妻は斎藤家から離れようとしませんので、一人で故郷に戻ることにしました。故郷に戻った大弐は、真っ先に屯王新町にいる兄の家を訪れ、江戸の生活などを話しました。苦しい江戸の生活を語り、これからのことを相談すると昌樹は笑いながらいいました。  「お前もとうとう弱気になったか、甲府も江戸もそう大差はないぞ、何ごともがまんだ。がまんしていれば、そのうちに良くなる時もくるだろうさ」  大弐は、兄の鷹揚な態度に心を打たれ安らぎを感じました。兄弟でしばらく話しているうちに、やがて墓参の話がまとまり、二人は揃って金剛寺にお参りしましたご兄弟は、寺を清掃してから線香をとげ、住職に読経を頼みました。玉川の樋ロ家から嫁いだ祖母の墓は立派でした。  大弐は墓参を済ませると、金剛寺で兄と別れ、甲府に向かいました。龍華院の両親の墓に御参りしようと考えたからです。  龍華院には井村和尚がおりました。和尚に会ってあいさつをしてから両親の墓に詣でました。住職は、読経をすませるといろいろの世間話をはじめました。話の中に、柴田正武のこともでてきました。 思想的な傾きかあって、勤番から睨まれている。などという話でした。大弐は、すぐそこにある武家屋敷の屋根を眺めながら、住職の話を聞いていました。正武は親しい隣人でしたから、一応のあいさつをと思いましたが、住職の話を聞いて会うのをやめました。  大弐は、町を歩きながら正武のことを考え、正武の思想を理解しようとしました。将軍吉宗が享保の改革を行いましたか、たいした成果もなく、庶民の生活は相変わらずで、不満に満ちていました。正武は多分そうした政治に批判的だったのでしょう。大弐には正武の気持が良く分かりました。それというのは、大弐がかねてから考えていた「柳子新論」の論理と一致するところがあるからでした。  

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る