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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月18日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

歴史の方でも伊達政宗のように、独眼竜といわれた偉人は少なくありませんが、伝説では、ことに目一つの人が尊敬せられています。その中でも前にいった山本勘助などは、武田家一番の智者であったように伝えられていますが、これがすがめで、またちんばでありました。鎌倉権五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたというより他に、何事も残ってはいないのに、早くから鎌倉の御霊の社に祀られていました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の霊が一緒におまつりしてあるのです。

奥羽地方の多くの村の池で、権五郎が目の傷を洗ったという話があるのも、もとはやはり眼を射られたということを、尊敬していたためではないかと思います。そうすると片目の魚といって、他の普通の魚と差別していたのも、必ず何かそれと似たようなわけがあったので、女の一念だの、池の主のうらみだのというのは、ちょうど池の辺ほとりの子安神に、「姥母甲斐【うばかいない】」の話を持って来たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋つなぎ合わせたものらしいのであります。

つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがあるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われるのみならず、また話にはいろいろ残っております。例えば近江おうみの湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕え、一つは神前に供え、他の一つは片面の鱗うろこを取ってしまって、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはいって来る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといいました。そんなことが出来るかどうか疑わしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くという話だけはあったのです。

 

また天狗様は魚の目が好きだという話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまわるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼしといって、山から天狗が泥鰌を捕りに来るのだといいました。そのことがあってからしばらくの間は、溝みぞや小川の泥鰌に眼のないのが幾らもいたそうで、それは天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島あまみおおしまの村にもありました。沖縄では「きじむん」というのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、「きじむん」と同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、大そうつごうがよいという話もありました。

また宮城県の漁師の話だというのは、金華山の沖でとれる鰹魚かつおは、必ず左の眼が小さいか、潰れている。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで来るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山詣まいりというそうであります。必ずといったところが、一々調べて見ることは出来るものではありません。人がそう思うようになった原因は、やはり神様は片目がお好きということを、知っていた者があった証拠だと思います。

それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたという話も残っています。日向ひゅうがの都万【つま】神社のお池、花玉川の流れには片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫【このはなさくやひめ】の神が、このお池の岸に遊んでおいでになった時、神様の玉の紐が水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がいるようになった。玉紐落と書いて、この社ではそれをふなと読み、鮒を神様の親類というようになったのは、そういう理由からであるといっております。

(笠狭大略記。宮崎県児湯郡下穂北村妻)

 

 加賀の横山の賀茂かも神社においても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗の川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。

(明治神社誌料。石川県河北郡高松村横山)

 

 昔の言葉では、こうして久しい間、神に供えた魚などを活かして置くことを、いけにえといっておりました。神様がますますあわれみ深く、また魚味をお好みにならぬようになって、いつ迄までも片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでいることになったのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もっと後までも行われていたのではなかろうかと思います。俎岩まないたいわなどという名前の平石が、折り折りは神社に近い山川の岸に残っていて、そこでお供え物を調理したようにいっています。備後の魚が池という池では、水のほとりに大きな石が一つあって、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといい、村の人はひでりの年に、ここに来て雨乞いのお祭りをしたそうであります。

(芸藩通志。広島県世羅郡神田村蔵宗)

 

 阿波では福村の谷の大池の中に、周囲九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があって、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雑魚までが、残らず一眼であるといっています。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輪兵部殿という武士が、昔この岩の上に遊んでいた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家ことごとくたたりを享うけて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留とどまって、池の魚がいつ迄も片目になったのだといいますが、これもまた二つの話を結び合せたものだろうと思います。

(郷土研究一編。徳島県那賀郡富岡町福村)

 

 大蛇といったのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにえでありました。それとある勇士が水の神と戦って、初めに勝ち、後に負けたという昔話と、混同して新しい伝説が出来たのかも知れません。しかしこういう池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるということは、非常に古くから云い伝えていた物語であります。どうしてそんなことを考え出したかはわかりませんが、少くともそれが生贄の眼を抜いて置いたということと、深い関係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或あるいはすがめの人が、特別に神から愛せられるように思う者があったのであります。大蛇が眼をぬいて人に与えたという話は、弘ひろく国々の昔話になって行われております。その中でも肥前の温泉嶽【うんぜんだけ】の附近にあるものは、ことに哀れでまた児童と関係がありますから、一つだけここに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人が住んでいましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に来まして、それがほんとうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといったので、かえって不審に思ってのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを巻いて、生れ子を抱えていました。それがまた女になって出て来まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなった。子供が泣く時にはこの玉を嘗なめさせてやって下さいといって、自分で右の眼を抜いて置いてお山の沼へ帰って行きました。それを宝物のように大切にしておりましたが、その評判が高くなって殿様に取り上げられてしまい、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てても、なめさせてやることが出来ません。こまり切って親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いていると、にわかに大浪がたって片目の大蛇が現れ、くわしい話を聴いて残った左の方の眼の玉を抜いてくれます。喜んでそれを貰って来て、子供を育てているうちに、その玉も殿様に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死のうと思って、また同じ沼へやって来ますと、今度は盲の大蛇が出て来て、その話を聴いて非常に怒りました。そういうひどいことをするなら、しかえしをしなければならぬ。二人は早くにげて何々という所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰うことが出来るからといって、親子の者をすぐに返しました。そうしてその後でおそろしい噴火があって、山が崩れ、田も海も埋まったのは、この盲の大蛇の仕返しであったというのです

(筑紫野民譚【つくしのみんたん】集)。

 

遠州の有玉郷では、天竜川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰ってそれを持って出世をした話が、古くからあったようですが、眼を抜いたということは、そこではいわなかったと思います。(遠江国とおとうみのくに風土記伝)

 何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、「一つまなぐ」、東京では「一つ目小僧」などといって、顔の真中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴とうとみもしていたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたという話なども、ことによると別に今一つ前の話があって、その後の勇士のしわざに、間違えてしまったのではないかと思います。

 飛騨の萩原町の諏訪神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森家の家臣佐藤六左衛門という強い武士さむらいがやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へ遷うつそうとした。そうすると、神輿が重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門この体を見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。

(益田【ました】郡誌。岐阜県益田郡萩原町)

 

この話なども佐藤六左衛門がやって来るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長していたのだということを、たしかめることは出来ないのであります。もっと前からこの通りであったのを忘れてしまって、この時から始まったように、考えたのかも知れません。わざわざ梅の枝など折って、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるということは、気の短い勇士の佐藤氏が、しそうなことでありません。そればかりでなく、神様が目を突いて、それからその植物を植えなくなったという伝説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをここで挙げて見ますと、阿波の粟田村の葛城大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乗っておでかけになったところが、お馬の脚が藤の蔓つるにからまって、馬がつまずいたので落馬なされ、男竹でお目を突いてお痛みははげしかった。それ故に今にこの社の神には眼の病を祈り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪やぶには男竹が生えず、馬を置くと必ずたたりがあるといいました。

(粟の落穂。徳島県板野郡北灘村粟田)

 

美濃の太田では、氏神の加茂県主かもあがたぬし神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽ちまきを作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。

(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)

 

信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡当郷村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜の蔓に引っ掛ってころんで、胡麻の茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱【はしばいなこき】あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔(阿部)清明様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)

 小谷四箇荘【おたりしかそう】にも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土の奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、茱萸【ぐみ】で眼をさしたことがあるからだといっております。

(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)

 

 東上総【ひがしかずさ】の小高、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍【みちばた】に自生するのを見付けても、驚いて御祈祷きとうをするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。

(南総之俚俗【なんそうのりぞく】。千葉県夷隅【いすみ】郡千町村小高)

 

 中国地方でも、伯耆の印賀村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲いずもの方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)

 近江の笠縫の天神様は、始めてこの村の麻畠の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡いましめで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。

(北野誌。滋賀県栗太郡笠縫村川原)

 

 また蒲生郡の川合という村では、昔この地の領主河井右近太夫という人が、伊勢の楠原という所で戦いくさをして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。

(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)

 

 関東地方に来ると、下野(しもつけ)の小中という村では、黍きびを栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。

(安蘇史。栃木県安蘇郡旗川村小中)

 

 この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵を洗った清水、それから山鳥の羽の箭をきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。

(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)

 

 眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣の村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神うぶすながみの白鳥しらとり六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。

(三州横山話。愛知県南設楽【みなみしだら】郡長篠村横川)

 

 石城(いわき)の大森という村では、庭渡にわたり神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。

(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)

 

それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。

丹波の独鈷抛山【とっこなげやま】の観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中あたりました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。

(口丹波口碑集。京都府南桑田郡稗田野【ひえだの】村柿花)

 

 羽後の男鹿半島では、北浦の山王さんのう様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭の達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山の嶺に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。

(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)

 

この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。

 野州やしゅう南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子【いけはやわけおうじ】という方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。

(下野神社沿革誌。栃木県芳賀郡山前村南高岡)

 

奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊ごりょう神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。

(相生集。福島県安積【あさか】郡多田野村)

 






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最終更新日  2021年04月25日 11時14分22秒
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