素堂の家系
素堂家の家系については前項までにも触れているが、ここで改めて調査の結果から述べてみたい。
素堂の家系は『国志』「素道の項」を中心とするか『連俳睦百韻』を参考にするかで大きな違いを生ずる。 素堂の数ある著書や序文・跋文・詩書などにも「国」に関する記述があるのでそれを紹介してみたい。
◎ 『其袋』 元禄三年六月刊、著元禄二年(1689) 九月十三日夜遊園 素堂十三唱 の十三唱目
国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな
この前書の国は不明であるが、素堂の甲斐入りは元禄八年夏のみ確認され(『甲山記行』)元禄二年は確認できない。 後に触れるが山梨県と素堂を結ぶ元禄九年の「濁川改浚工事」は素堂側の資料からは抽出できない。
さて素堂の家系について『連俳睦百韻』を見てみる事とする。既に前項で触れているが再確認すると
素堂の祖先は織田信長の家臣で次の豊臣秀吉にも仕えて会津百万石を知行して最後は京都で亡くなった蒲生氏郷の家臣山口勘助良佞と云う。荻野清氏はその著『山口素堂の研究』でこの山口勘助が甲斐教来石村山口に住んだとして、その後は『国志』の記述に結びつけている。これは安易な方法であり歴史事実ではない。蒲生氏郷は天正十年(1582)に織田信長か甲斐を壊滅した折に諏訪より台ケ原村(現在の白州町)に布陣し次の日新府城を攻め落とした武将の中に含まれている。素堂の祖先が何時蒲生氏郷の家臣から町屋に下ったかは資料不足で言及できないが、甲斐巨摩郡教来石村山口に郷士として住んだ事は有り得ない事である。山口は当時は人が住むような立地条件には無かったのである。
◎『甲山記行』(元禄八年・1695)著
それの年(元禄八年)の秋甲斐の山ぶみをおもひけ る。そのゆえは予が母君がいまそかりしけるころ身 延詣の願いありつれど、道のほどおぼつかなうて、 といもなはざりしくやしさのまま、その志をつがん ため、また亡妻のふるさとなれば、さすがになつか しくて、葉月(八月)の十日あまりひとつ日(十一 日)、かつしかの草庵を出、むさしの通を過て、( 中略)十三日にのたそがれに甲斐の府中につく。外 舅野田氏をあるじとする。云々
◎『国志』
元禄八年乙亥素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。 旦つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢され御代官触 頭の為め府中に在り 政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。 両著の記述の違いは明白である。『甲山記行』は素堂の自著でありその内容は疑う余地はない。
甲斐は亡妻の故郷なのである。そして亡妻は野田氏の家系に在る事である。当時甲府代官には桜井孫兵衛と同年から勤仕している野田勘兵衛が在住していた。勘兵衛の父は野田七郎兵衛であり、素堂の妻の父はこの七郎兵衛の可能性が高い。七郎兵衛は延宝三年(1673)飢饉に際しての不祥事で深谷庄右衛門、水上三郎兵衛、遠藤治郎右衛門、前島佐次右衛門、近山清兵衛等と共に閉門を仰せつけられている。(『天正、宝永年間記』) 『甲斐国歴代譜』によれば、奉行として野田市左衛門の名が見える。野田家の家系については複雑な部分があり現在調査中であり、いずれ明確にするつもりである。
素堂の『甲山記行』には桜井孫兵衛との会談や接見などには一切触れてはいない。この時の甲斐滞在中の日程の中には行動が不明な部分もあるが、だからといって素堂が政能と接見したとするのは推説の域を脱しない論である。素堂の母は元禄八年に急逝したことは資料により明らかであるが、素堂の妻の死去が元禄七年であることは知られていない。素堂の紹介書の中には「素堂は母に至孝で生涯妻を娶らず」のような著書もある。素堂の妻の死は素堂から曾良(芭蕉の門人とされるが、素堂と曾良は特別な関係にあった)宛の書簡により分かる。