濁川改浚工事
山梨県で素堂を最も有名になったのは元禄九年の濁川改浚工事である。『甲斐国志』のこの項は他の項と全く違う記述方法となっている。濁川工事に関係する部分を抽出して見ると、(読みやすくした)
元禄八乙亥歳素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。旦つ桜井孫兵衛に謁す。政能素堂を見て喜び、抑留して濁河の事に及ぶ。嘆息して云ふ。濁河は府下の汚流のる聚【あつま】る所。頻年笛吹河瀬高になり、下の水道の壅がる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。民は溢決に苦しみ、今に至る尚爾り。
国の病と為す。実に甚だ死し。水禍を被る者、十村中に就き、蓬澤・西高橋二村最も卑地にして、田畠多く沼淵となり。(中略)
政能屡々之を上に聞すれども言未だ聴かれず。それ郡の為め民の患いを観、すなわちこれを救うこと能わずや。吾れ辨じて去らんと欲す。然れども閣下(素堂)に謁して、自らの事の由をのべ、可否を決すべし望み、謂ふ足下く此に絆されて補助あらんことを。
素堂答えて云ふ。人者これ天地の役物なり。可を観て則と進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青も前に小石川水道の為に力を尽くせし事ありき。僕慎みて承諾せり。公の令に旃(こ)れ勉て宣しくと。
政能大に喜びて晨【あした】に駕すことを命ず。(中略)吾思ふ所あり、江戸に到りて直ちに訴へんとす。事成らざるときは、汝輩を見ること今日に限るべし。構へて官兵衛(素堂)が指揮に従ひ、相そむくことなかれと。云々
素堂は剃髪のまゝ双刀をたばさみ、再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是れ自り夙夜に役夫を勒して濁河を濬治す。(中略)是れに於て生祠を蓬沢南庄塚と云ふ所に建て、桜井明神と称へ山口霊神と伴せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊でか洪恩に報んと云ふ。云々
国志にこう書かれては一般の人なら信じてしまう。まるで政能と素堂は会話が歴史資料に現存しているような錯覚に陥る。これは濁川の河畔にある桜井孫兵衛の親族斉藤正辰の建立した地鎮碑の刻文を参考にした著者の創作部分である。ここで斉藤正辰の刻文を紹介する。
◎ 濁河地鎮碑
甲州の蓬澤、西高橋両村、濁河の剩水を受けて大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば即ち舟に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾は但【いたずら】に与にするを焉、禾黍も実らず、飢え死にしたる者野に盈つ。将に不毛の地と為らんとす。
元禄甲戊(七年)桜井孫兵衛政能郡の為に于邑に到る。民庶は涕泣して濬地の計を請う。政能は諾し明くる年乙亥(八年)帰りて老臣に訴へて、其の事に甚勤した。国君(藩主徳川綱豊)はこれを恤し、明くる年丙子(九年)新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間の泥を開いて塞を决き、濁河の流れを導きて笛吹川に合せ遂ちて止む。是に於て土地は沃乾【こえかわ】き稼穡【かしょ】は蕃蕪す。民は以て居すべく、租を以て入るべしと。 政能死してから久しい。而して両村の民は愈々【いよいよ】その恩を忘れること能はず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。後来其の所由【よるところ】を失うを恐れ、遂に書を石に勒すと爾【かく】云う。
元文戊牛七月 斉藤六左衛門正辰
(三年、1738)
石碑を建立した斉藤正辰本人が碑文の中で
鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。
と云っているのに、後世の研究者は「生祠」と断定して諸書にその論を展開している。江戸時代に於て代官がその業務遂行完成に於て「生祠」を建てることなど厳禁事項である。
この間違いは同じ『甲斐国志』の中の「巻の四十三」に記載されている「庄塚の碑」の記述によるものである。(抜粋)
手代の山口官兵衛〔後に素堂と号す〕其の事を補助し頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利【さいわい】とす。終【つい】に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し(中略)側らに山口霊神と称する石塔もあり。 しかし『甲斐国志』より三十余年前に刊行された『裏見寒話』(野田市左衛門著)によれば、(抜粋)
湖水の眺望絶景なりしを桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁河へ切落とす、今は一村田畑にして、農民業を安んす。農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。
として山口霊神や山口素堂の関与には触れてはいない。『裏見寒話』著述の時代には桜井孫兵衛の事蹟は語り継がれていたが、素堂の関与は歴史事実及び言い伝えとして無かった事を示唆している。
桜井孫兵衛は享保十六年(1730)に死去している。「桜井社」の建立は享保十八年(1732)で現在も刻字が明確に読み取れる。側らの石碑の建立は元文三年(1738)である。
当時の甲府の財政は悪化の一途を辿り、幕府よりの借金も増えている時期で、度重なる地域の要請に幕府が答える事ができなかった一つの要因である事には間違いない。代官の職務の一番は年貢の確実な取り立てである。田畑の損失は年貢の納入に大きな影響を与え代官の業績や昇進にも響く。身銭を切っても納入額を完納する義務が在る。農民を救う事は即ち自らの立場を保持する事に繋がることで、桜井孫兵衛の碑文事蹟をそのまま認めるわけにはいかないのである。
元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。
このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、
元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。
工事にかかった経費は三百両余である。
桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。
斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》
正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分をした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。
素堂死去した後、『甲斐国志』までの期間に素堂及び山梨県の歴史資料には、素堂と甲斐の関係や濁河工事関与を示す書は無い。