カテゴリ:柳沢吉保 山梨北杜資料室
柳沢吉保故地を想う。お抱え儒者、荻生徂徠を甲斐へ(参考 「武川村誌」)
柳沢吉保は、甲府藩主になったとはいえ、幕閣の首班という立場にあっては、自撰の霊台寺(れいだいじ)碑の述べる山川形勝の実地を尋ねることはもとより、祖先発祥の地武川一帯を調べることはできないが、硬文の吋容と実地を確かめたいので、平生信任している儒臣の荻生徂徠と田中省吾にその任務を託したのであった。 当時祖株は柳沢家に出仕以来満10年で年齢は四十歳、儒学におげる評価は、京都の伊藤仁斎に譲らず、吉保も自慢の種にしていた。 「家の飾り惣右衛門ほどたる儒者は、公儀にこれたき様に思召し侯。」と家臣が記している」惣右衛門とは徂徠の通称である。 当時、徂徠の右に出るほどの儒者は幕府にもいないと評価され、柳沢家の飾り(名誉の象徴)といったのであろう。 大小の諾侯が辞を卑くし幣を厚くして招くのに一瞥も与えたかった徂徠が、吉保の求めには欣然として応じたのである。 「士は已を知る者のために死す」という、徂徠は、吉保において知已を見出した。 吉保の命を受げた徂徠は、僚友田中省吾と宝永三年(1706)九月七目(太陽暦十月十三日)に江戸藩邸を出発、甲州賂に向かった。 初夜は八王子に泊り、 八日、小仏峠の瞼を越え、鳥沢で日は暮れたが闇中を強行して猿橋に到り、松明の光りで奇橋の奇たるゆえんを確かめ、猿橋に宿った。 九日、笹子峠を越えて勝沼の葡萄を賞味し、石和駅に急いで主君の祖五郎旧光公の旧荘を訪ねようとしたが、既に目が暮れて果さず、石和宿に泊り重陽の節を祝った。 十目、甲府に入り、州大夫(城代柳沢保誠)に面会レ、藩主の命を伝えて城中を巡視し、その壮麗に驚き、天守台に登臨し、城外四方を展望し、霊峰富岳をはじめ山川1を眺め、 十一日、旧府城(現武田神社)に機山公の英武と雄図を偲び、城跡の質素なるに驚き、「人を以城桝となす」機山信玄の真意を解したという。 ここから東に足を運んで藩主「寿蔵の地、霊台寺」の工事現場を巡視の上、宿所に帰着した。 同夜、城代、沢権太夫保格の邸に老臣以下の参集を求め、藩公親製の「穏女山霊台寺碑」の披露を行った。 田中省吾が朗読し、徂徠が文意を解説した。一同は藩公吉保の名文と徂徠の解説に服した。 九月十二目は藩公の祖先発祥の地、武川衆ゆかりの地を訪れる日である。 甲府を後にし、藍河(相川)、荒川・貢川)を渡り、宇津谷村を経て塩川を越え、韮崎宿に到り仏窟山雲岸寺の仏窟(現在の穴観音)に参詣した上で釜無川の東岸を北行し、 七里岩の台上に新府城跡を仰ぎ見たがら釜無川を渡り、徳島堰に兵左衛門俊正の遺業を誉め、 柳沢氏の本家、青木氏の故郷青木村に、青木家歴代の菩提所、「武隆山常光寺」に到着した。 藩公吉保の伍父兵部丞信俊は、青木家の出身である。 後年の話にたるが、享保九年(1724)、甲斐より大和郡山へ国替の時、領内の民が年貢米を残らず納めた。 一般的にいって、国替のようた場合、農民は上納を怠り、滞り勝ちになるものであるのに、吉保、吉里父子は、年貢の徴収にも、農民の難儀にならないように、非道のことのないように、無理強いのないように、検見の時にも農民らに物入りのないようにと、いつも郡代、代官を戒めるので、役人たちも心付き厚く、その結果、このように滞納しないのであろうと、その頃大名たちが江戸城中で噂したと『源公実録』に見える。 荻生徂徠入峡と吉保 吉保は、甲府藩主になると、甲府を永住の地と定め、菩提寺を開基することを決意した。 『甲斐国志』古跡都第八山梨郡北山筋に、「●廃竜華山永慶寺」(りゅうかざん、えいけいじ)の項がある。 この寺は宝永二年に吉保が自身の寿蔵の所とするために、山梨郡岩窪村の竜華山下に地をトし、山城国宇治の黄檗宗大本山黄檗山万福寺に準じて、はじめ穏々山霊台寺(おんおんざんれいけいじ)の名で開基した禅刹であった。 したがって、宝永三年に吉保が自撰した碑文の題は穏々山霊台寺と記す。穏々山霊台寺は宝永三年から同七年までの問に竜華山永慶寺と改名したのであるが、『甲斐国志』すら「寺山号ヲ改ムルノ故ヲ知ラズ、」と述べているほどで、改名の年月や理由が不明なのは惜しい限りである。 吉保は、菩提所穏々山霊台寺を開基すると、文字通り心血を注いで「穏々山霊台寺碑」の一篇を草した。(略) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月24日 06時33分52秒
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