カテゴリ:山縣大弐
山県大弐の歴史 柴田正武の最後
甲斐の酒折宮の建碑が終わると、大弐は急いで江戸に戻りました‘大弐にはやらなければならないしごとが。杯あったからです・例えば「天経発蒙 てんけいはつもう」八巻のうらヽ残りがまだ三巻もあったからです。 この本は、天体の動きや、太陽系の星の位置などを記された貴重な文献です。 太陽の大きさや月との距離なども書かれている天文学の本です。 そればかりか、大弐塾のこともありました。 大弐の留守中は、藤井右門が塾長を勤めていましたが、 塾生は満足せず、おおぜいの弟子たちが、大弐の講義を待っていたのでした。 そしてまた、すでに完成しつつある大弐の代表作、「柳子新論」の発表も迫っていて、 大弐は、いつ発表しようかと機会を侍っていたのです。 そんな折、柴田正武が江戸に送られてきました。 罪人護送用の駕篭に乗せられ、駕篭は頑丈な鎖で巻かれていたといわれています。 よほどの喧罪だったのでしょう、噂では、息Fの助四郎も一緒だったそうです。 大弐は、話を聞いてびっくりしました。 柴田とは与力時代からのつきあいがあり、酒折宮の建碑のとき一緒になったばかりです。 また、助四郎は事件を起こした大弐の弟、武門の遊び友だちだった関係もあります。 大弐は大いに心配し、使いの者を評定所に走らせました。 使いの門弟はしばらくして戻ってきましたが、罪状についてははっきりしないともうしました。 役人のいうことには、「御雲夢によって捕縛した」 と申されたそうです。 「ご霊夢だと申したのか・・・」大弐は、絶句しました。 これは、好ましからぬ人物を官権が逮捕するとき、常用するロ実だったからです。 柴田史左衛門正武は、形式的な裁判を受けただけで、即日遠島を申しつけられましたが、 十二月十三日、獄中にて白殺してしまいました。 ご霊夢などと曖昧な罪状で捕らえられた正武でしたが、幕府では相当な重罪人と認めたのでしょう。 息子の助四郎はすでに処刑されていたのです。 大弐は、柴田親子の死を悼み、長文の「弔辞」書きましたが、その文章があまりにも名文だったため、 複写されてあちこちの街角に張り出されたそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月24日 06時19分53秒
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