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ウースターソース『月間歴史教育1981⑨』 「生活史シリーズ」日本の調味料3 洋風調味料 明治文明開化の風味 大塚滋氏著 東洋食品工業短期大学教授 一部加筆 前回と前々回でしょうゆとみそについて述べてきたが、こんにち私たちが使っている「調味料」と名がつくものには、こうした伝統的調味料のほか、塩・酢・砂糖などの基本調味料(塩味・酸味・甘味・旨味など、人間の基本的味覚に対して化学的にほぼ純粋な形で作用する物質で、結晶または水溶液の形で使われる)がある。 また、みそ・しょうゆなどと並ぶ、独特の風味をもつ調味料としては、トマトソース・ケチャップ・マヨネーズ・ウースターソース・カレーなどの洋風調味料がある。 さらに、最近、簡易化する食生活に的をしばった用途別の風味調味料として、麺類のつけ汁やスープ、てんつゆ、各種の料理用に調合されたものなどがある。ことにこれらの風味料は料理の専門家の助けを借りて味がととのえられているのでたいへんおいしく、主婦たちの悩みを解消したといえる。 家庭の台所にはこれらの調味料のビンや缶がたくさん増え、そのために棚を新設しなければならないほどで、味の世界もまた、今花盛りなのである。 これらの洋風調味料のうち、いちばん早く伝来し、作られるようになったのは〝ソース〟のようだ。これはもちろん「ウースターソース」のことで、いらい日本でただソースといえばウースターソースを指すほど一般化した。 ウースターソースの起源はあまり古いものではなく、二百数十年前にイギリスのウースターンャー州に住むある主婦がリンゴの切れ端や野菜の残りものにコショウやカラシなどを混ぜて壷の中に入れて置いたところ、自然に発酵して溶けて、よい香りと味になった。のち、一八五四年に製造される.ようになり、発見地の名をとって「ウ-スターソース」と名づけた、という。 はじめのウースターソースがどんな風昧だったのか、知るよしもないが、 リンゴや野菜が発酵した程度では、到底今の日本の〝ソース〟のようにおいしいものだったとは考えられない。 ただ、この話でウースターソースが一種の発酵調味料だったことがわかりその意味でこれは前稿で述べた「醤」の一種であったことになる。たぶん「莱醤」とでもよぶべきものだろう。こんにち西洋で用いられているソースの種類は多いが、発酵によってつくるのはこのソースだけで、たいへんめずらしい。起源説話はともかくとして、むしろ東洋の醤からの派生と考えるのが正しいとする人もある。 日本でウースターソースに似たものがはじめてつくられたのは安政元(一八五四)年だといわれる。イギリスで商業的生産が開始された年である。すばやい動きである。この年、日米和親条約(神奈川条約)締結、明治維新を一四年後にひかえたころであった。 欧化を新政策の柱として打出した維新政府にとって、食生活の洋風化はその眼目だった。千数百年間続いた肉食禁止の解除は、なかでも庶民政策の「目玉商品」であった。そして庶民はおそるおそる牛肉を食べるようになった。しかし、それはミソ漬け・スキヤキ・牛鍋など、伝統の調味料によってであり、料理そのものの洋風化はなかなか進まなかった。 しかし、横浜・東京・大阪などにできた西洋料理店では、外人寄せのために洋風の調味料を必要とした。そのため西洋料理店では外人に教わりながら、見よう見まねでソースを作っていた。このころの外人の多くがイギリス人であったため、日本のコックたちはまずウースターソースのつくり方をまねるようになったといえる。 幕末の戦いではイギリスが官軍の後押しをし、フランスが幕府を援けた。官軍が勝ったため、明治以後の〝西洋″はまずイギリスに重点がおかれるようになる。西洋の文物もまたイギリスの文物が多かった。こうしたことは、食の世界でも顕著で、たとえばパン(この語自体はフランス語だが、じつは一五世紀に導入された時のポルトガル語をもとにしている)の場合、日本人が最初になじんだのがイギリス式山型食パンだったのもその例だ。 フランスに後押しされていた幕軍は一部糧食としてパンを採用したが、まん中に孔をあけてヒモを通して腰に結びつけて戦ったという。フランス式の固くリーンなパンを想像させる。もし幕軍が勝っていたら、日本人はもっと早くフランス式のバゲットやブールやクロワッサンを食べていたかも知れないのだ。 同じことがソースにもいえる。もし幕軍が勝ち、幕府が続いていたら、私たちはもっと早くフランスのホワイトソース・ブルーテソース‥ブラウンソースなどを使うようになっていたに違いない。「日本でソースといえばウースターソース」と書いたが、それは近代日本の政治の歴史がもたらした、一つの必然だったのである。 ウースターソースがソースの代表になったのにはもう一つ、なんにでもかけて食べる「卓上調味料」という使い方が醤油の使い方と似ていること、色も似ていること、スパイスが強烈なため、かけるとたちまち〝洋風″の風味をそえるなどの手軽さなども原因であろう。ソースがつねに醤油の兄弟分として把握されていたことは、明治に入ってウースターソース、の製造販売を行なったメーカーが、「新味醤油」(ヤマサ)、「洋醤」(山城屋)などと名づけたことからもうかがわれる。 ヤマサ醤油の七代目浜口儀兵衛 ソースの企業化を試みようとしたのはヤマサ醤油の七代目浜口儀兵衛で、明治一八年にソース研究のため渡米し、ニューヨークでなくなったが、随行した高島小金治が製法を習って帰った。八代目の儀兵衛が高島につくらせ、ミカドソースと名づけ、「新味醤油」という名で商標登録をとった。 ミカドソースは単に国内用だけではなかったらしく、アメリカでの販売も試みている。 しかし、ミカドソースは時期が少し早すぎたようで、販売がふるわず、一年で製造を中止した。が、洋風化の波はこのすぐれた調味料をいつまでも放っておくことはなかった。このあとのソース製造の歴史はそのまま明治の庶民の味覚の歴史でもある。 大阪の三つ矢ソース本舗越後屋 山城屋を開店してソース発売。「イカリ印」 明治二七年。大阪の三つ矢ソース本舗越後屋が誕生。ついで大阪で木村幸次郎、山城屋を開店してソース発売。「イカリ印」と命名。これは木村が日清戦争中に船火事にあったが錨(イカリ)索にすがりついていて命拾いしたことから、「イカリ」と名づけたといわれる。木村にとってソースの発売は起死回生のための事業だったのかも知れない。はじめのころの看板では「錨印」と漢字で、イカリも左の脱が下を向いて少し曲っているだけの、実物に近いものだった(今の商標は左が上がり、右が下がって、ちょっとユーモラスな感じになっている)。 野村洋食料品製造所が「白玉ソース」 明治三一年には野村洋食料品製造所が「白玉ソース」を発売し、三三年には神戸で安井敬七郎が本場のソースに近いものを発売、さらに東京の伊藤胡蝶園がソースを製造。 こうした群雄輩出の中、明治屋の広瀬角蔵は明治二八年、イギリスのウースター市のソースをじっくりと調査し、三三年に帰国、本場のソースが直接輸 入されるようになった。 ブルドッグ さらに東京では大町信(明治三九年)、小島仲三郎(先代、明治四〇年)、荒井現在の商標長治郎(四五年) がソースを始めた。 このうち小島は日本犬を商標にし、のちブルドッグに変更、荒井ははじめスワンだったが、のちにチキン印に変えた。 大町は輸入品に近いソースをつくった最初の人といわれているが、ソースの特徴である香気のだし方にたいへん苦労している。香辛科が入手できなかったからである。 ウースターソースの原料 ウースターソースほど原料が多様なものは、食品中、もちろん世界の調味料中、めずらしいといわれている。ここでウースターソースの原料とされているものを列挙すると次のようになる (ただし、ウースターソースには別にきまった使い方があるわけではないので、これらがつねに全部用いられているわけではない)。 野菜類 タマネギ、ニンジン、トマト、セロリ 香辛料 丁字(クローブ)、ニクズク(ナツメグ)、桂皮(シナモン)、月桂樹の葉(ベイリーフ)、 オールスパイス、メース、トウガラシ、コショウ、タイム、セイジ、ショウガ 諷味料 砂糖、食塩、酢酸、グルタミン酸ナトリウム、クエン酸、食酢、アミノ酸類、 着色料 カラメル 香辛料と調味料の洪水である。そして、香辛料のうち、丁字、ニクズク、タイム、セイジなどソースの香りの基礎となっているものの輸入はゼロに等しかった。業者は仕方なく漢方薬として売られているものを使うしかなかった。特にほんもののソースの香味を好む人には舶来品と自家製品を混ぜて「ダブルソース」と称して売ったという。 蟹江市太郎(カゴメの創始者) 明治四一年には名古屋の蟹江市太郎(カゴメの創始者)が、トマトケチャップ製造のかたわらウースターソースの製造に着手した。 さて、こうしたいきさつから察しられることは、当初の日本のウースターソースは本場のものとはかなり違ったものだったことである。外国の食品や調味料が導入されるときは、多かれ少なかれ昧や香りが日本人好みに〝日本化〟されるのがふつうだが、ソースの場合は前述のように、その風味を左右する香辛料がえられなかったわけで、大幅な〝日本化〟はいたしかたなかったであろう。 ところで、今の日本のウースターソースと本場のものをくらべてみて、大ていの人が感じるのは、日本のものの方がおいしいことだ。慣れもあるだろうけれど、どうも日本のものの方がおいしい。 私はアメリカのマサチエセッツ州のウースター市に二年ばかり住んだことがある。アメリカにはウースターという名の町が三つか四つあり、みんなイギリスのウースターシャー州出身の人たちの町だろうから、本場の、あるいは本場ものに近いウースターソースにお目にかかれるかも知れないと思って行ったのだが、ウースターソースそのものが一般的でなく、スーパーの棚の片隅に中国醤油やカレー粉などのマイナーグループと並んでいるのを買って試したがあまりおいしいものではなかった。 日本のウースターソースが今のもののようなおいしいものに完成したのは、たぶん大正から昭和のはじめにかけて香辛料が自由に入手できるようになったこと、日本人用の場合の用途もはっきりして、味の工夫の面で本当の〝ジャパナイゼーション〟があったことなどが原因だろう。日本のウースターソースは〝トビがタカを生んだ〟ようなもの、という人もある。 以来、日本人は、サシミとつけもの以外にはなんでもソースをかけてみるようにになった。トンカツ・串カツ・生キャベツ・カレーライス・オムレツ・ヤキメシ・ヤキソバ・シュウマイ・お好み焼きからタコヤキにいたるまで、ウースターソースあるいはその変型が使われる。外国に長く住むと、いろい な日本の味を恋うようになるが、ウースターソースもその中の一つだ。アメリカで大味なステーキ・ローストビーフ・スパゲッティ・ピザなどを食べるとき、ああここにソースがあったら、となんど友人たちと話し合ったかわからない。日本のウースターソースは多くの日本庶民にとって〝おふくろの昧〟ともいえる。 そのソースも、第二次大戦の敗戦によって、原料不足のためにつくれなくなり、品質の悪い醤油と酢を混ぜただけの、ソースではなく「ショース(醤酢)」が売られていた。 いま、ウースターソースやそれをベースにした種々のソースが妍(ケン うつくしい)を競う。 平和とは庶民の舌にとって不可欠のものなのである。
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最終更新日
2021年04月24日 06時13分04秒
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