カテゴリ:山縣大弐
山県大弐の歴史 栁子新論(りゅうししんろん)
「栁子新論」は、大弐の代友作であります、 一般には、過激な勤皇思想の固まりのようにいわれていますが、 大儀名分や王政の復活のみを記した書物ではありません。いねば、一種の文武並行論です。 勿論、それは表向きの理由にすぎず、煎じつめていけば、 幕府攻撃の危険思想といえなくもありませんが、益することも沿かれていますから、 ただちに捕らえて処分するというわけにもいきませんでした。 それで、大弐の言動に何かあるまではと、幕府は大弐の様子をしばらくの間窺っていたのです。 大弐は、そうした難をのがれるため、この本をだすに当たり、つぎのようなことを後書きに述べています。 私の家は、釜無川のほとりにあって、六代つづいた家柄であった。 享保のはじめに、大きな水害が何度もあって、田畑を流し家もつぶれてしまった。 その際、修理のため家を直していたところ、元明時代に造られたと思われる占い発町や刀と一緒に 「柳戸新論」という一冊の本がでてきた。 でも、長い年月を経ていたため、書籍は相当いたんでいて読むことも困難だったが、その本を父が修復した。 内容は十三編からなる論文で、読んでみると政治の体制にふれるものか多く、 キリスト教を悪く唱えていることを思うと、多分織田信長の時代の物ではないか。 つまり、織田信長の時代の本を、 自分が写し変えたにすぎないと大弐はいおうとしていたのであります。 誰が読んでも大弐の著書であるとわかる「柳子新論」を、 どうしてこのような断りをつけて発表したのでしょうか。 そのことについてはいろいろの説がありますが、それは省略して先にすすみます。 発表された「柳子新論」は大きな記響を呼びました。 例えば、当時有名な学者だった松宮主鈴、山田穀、橘正秀などが評論し、 後に幕末の志士といわれた久阪玄瑞や、国学者の吉田松陰なども愛読されたといわれています。 ともあれ、「柳子新論」には大義名分をうたい、 幕府の体制を批判し、王政俊占を叫んだ貴重な著書です。 「君臣弐なく権政一に帰す」が大弐の根本理念でした。 その思想はやがては幕末の若者に引き継かれ、明治維新が実現したのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月24日 06時12分16秒
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