山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/23(金)19:13

山県大弐の歴史 大弐の処刑

山縣大弐(23)

山県大弐の歴史 大弐の処刑   奉行所の役人に捕らえられ、連行された大弐は、 伝馬町の揚り屋という牢屋にいれられました。 これは未決囚の入れられる所で下級武士の扱いを受けました。  次の日、大弐の取り調べか始まりました。 奉行阿部豊前守直々の取り調べでした。 奉行は「柳子新論」を脇に置いていました。 でも、難しい本なので、直接にこの本のことには触れませんでした。 「その方が山県大弐でござるか」  まず、人定尋問からはじまりました。丁重なことばづかいだったそうです。 江戸焼き討ちの話に触れてきました。 大弐は、そのような事実のないことを説明し、 自分の仮想した城は甲府の城であると申し述べました、 兵法者が兵法を語るためには、 いずれかの標的か必要で、たまたま自分が甲府城の与力だったため、 そうなっただけだと説明したのです、  阿部豊前守は、大弐の説明で一応納得し、 それなら甲州軍学とはどんなものか述べて見よといいました。 大弐は臆する風もなく甲府の城の構造や配置を説明し、 北風の強い冬の季節を利用しての城攻めを説明しますと、 奉行は黙ったまま最後まで聞いていたといわれています。  さて、今度は調べが「柳子新論」のことに及びました。 すると大弐は大儀名分を解き、王政復古を叫びました。 幕府の役人に、直接訴えたかったとも申しました。 奉行は大弐の言い分を黙って聞いていました。 そして話が天文学に及びますと、何が何だか分からなくなりましたが、 大弐の学問は本物で、並みの人物ではないことを知りました。 ですから後に阿部豊前守は老中に対し、「大弐を殺すのは惜しい」と進言されたそうです。  ですが、何度か調べられた末、大弐に断罪の判決が下りました。 役人の中にも大弐を慕う者かいましたから、それとなく刑の執行の日を知らせてくれました。  中でも三井友右衛門は大弐を尊敬していましたから、 本を差し入れたり、書くものを渡したりしていました。 大弐は辞世の歌を書くことができました。   曇るとも何か恨みん月今宵     晴れを待つべき身にしあらねば

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