カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
芭蕉と素堂
芭蕉と素堂の関係は、一部の著書に垣間見られる程度で、芭蕉関係著書の中「素堂事跡」や「交友事績を」を探し出すのに苦労する。そのくらい素堂ぬきの芭蕉が存在している。 しかし当時の俳諧世界の中で山口素堂を外して芭蕉を語ってみてもそれは、深みのない創られた芭蕉像が浮かび上がる結果となる。 多くの俳諧関係者は、芭蕉の俳諧精神に感動して、尊敬して著しているのであろうか。芭蕉を崇め奉ることにより、芭蕉より己の地位と名声を求めてはいないか、芭蕉を崇めるあまりに神にまで昇進させてしまったなど芭蕉の本質からかけ離れた著書も多い。 私の書庫にも約200冊の芭蕉関係の本がるが、売るための本が多くあまり参考にならない。たまには芭蕉の生涯を淡々と綴っている本に出会うと、ほっとする。 こうしたことは、私が山口素堂の研究をはじめて理解できた。何でも間でも芭蕉の事績ように捉えるととんでもない間違いを生じる。 例えば「不易流行」など芭蕉より以前に、素堂の手により提示されている。それを後の門人と称する俳諧師により、恰も芭蕉が考えたような内容を持つ難解の書により、素堂の提示のことは抹消されている。
素堂の俳諧感
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。 これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。 芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。 ……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。 昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。 詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。 人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。 として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
芭蕉の誕生
芭蕉は寛永二十一年(一六四四)年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。私の研究している山口素堂より二才年下である。 もっとも、これは没年と時の年齢から逆算して知り得ることで、多くの著名人にも適用されている。したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十六日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。 徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が始まり、徳川幕府三百年の太平がはじまった頃である。 生れた所は伊賀上野の赤坂町、現在の三重県上野市赤坂町である。四方を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。
上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂をのぼり切ったところ、赤坂町に現在も芭蕉生家が遺っている。建物は安政の地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。
しかし僅か七干石の城下として上野のイメージを描いてはならない。上野の地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(1680)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。 幕府が名将籐堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘って、要衝の地である。土木築城の名手高虎は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下に相当する威容を備えていることになる。
現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。
芭蕉の生まれ育ったころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しかも実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記などの推測でとりまかれ、おぼろげな伝承を書く人の主観や臆測に覆われている。
これとても絶対の正しさは有していないが、芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。 身分家格もはっきりしないが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。(確証はない) 当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。
幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。
☆ 正保元年(1644)1才
● 伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂(現在の三重県上野市赤坂町)に松尾与左衛門の二男として生まれる。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。 ●伊賀国上野赤坂町に出生。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。父は松尾与左衛門。母は伊予国から名張に来た人の娘。姓氏不詳。 兄は半左衛門命清。他に一姉三妹。
<割注> 芭蕉の実家は白鳳城のすぐ東側にあたる赤坂町にあった。現在も上野市赤坂町三〇四番地にその実家のあとが残っていて、「芭蕉翁誕生之地」と刻んだ石標が建っている。(1979年当時・「芭蕉入門」今栄蔵氏氏著)
☆ 明暦2年(1656)13才
●2月18日、父没す。享年未詳。
☆寛文2年(1662)19才
●この頃、藤堂新七郎家へ出仕。嗣子良忠(俳号蝉吟)、当時21歳に仕える。 (藤堂藩伊賀付侍大将、藤堂新七郎家(食禄五千石)に召しかかえられる。その時期については未詳。台所方の奉公人、たぶん料理人であったか。当主良精の息主計良忠(蝉吟)の縁によるものと思われる。
現在「作句年次」の知られている最も古い発句 ○ 春やこし年や行けん小晦日 宗房 が成ったのは、この年。
最近の歴史書や芭蕉などを著したものの中には、「である」とか「疑いの余地がない」など断言するだけの資料がないのに言い切る風潮がある。「とつたわる」とか「ではないか」が本来で、断定調の根拠は希薄で史料が見えない場合が多い。
芭蕉は承応二年(一六五三)頃、つまり十才になった頃に、藤堂新七郎家の嗣藤堂主計良忠に小子姓として仕えたという。出仕の時期については異説もある。上野には城代の采女(うねめ)家に次いで、侍大将として藤堂玄蕃、新七郎の両家があり、ともに代々五千石の大身である。その一つの新七郎家の嗣子良忠は、寛永十九年(一六四二)の生れだから、芭蕉より二つ年長になる(素堂と同じ)。だから芭蕉が約十才の頃出仕したとすれば、遊び相手のような事とも考えられる。この主従の関係は良忠が二十五才で没するまで、約十余年つづくことになるが、この二人の少年の問には、単なる主従の問柄をこえた親密さがお互いに感じられたものらしい。
竹人の『芭蕉翁全伝」には「愛龍頗る他に異なり」とある。良忠はいつの頃からか、蝉吟と号して、貞門の俳諧を京の北村季吟に学ぶことになる。 古典注釈家・和学者として多角的な活動をした季吟は、明暦二年(一六五六)以後俳諧宗匠として、諸方の貴家豪家に出入していた。そして当時の俳諧それは和歌の伝統的マンネリズムや、既に儀礼的文学になっていた連歌とちがって、用語も自由だし、何よりも、軽いユーモラスな気分のもので、良忠の文学趣味を満足させるに十分なものであった。
藤堂家は文学に全く無縁であったわけではない。数少ない俳諧初期の資料として珍重すべき、藤堂高虎と家臣八十島道除との「両吟俳諧百韻」が、現在も遺されており、新七郎家の初代良勝、高虎等の連歌の懐紙も遺っている。 さらに蝉吟と時代を同じくして、本家三代目の弟で、伊勢久居五万三千石の初代領主となった藤堂高通は、任口と号して同じく季吟の教えをうけていた。 良忠の蝉吟が季吟を帥と選んで俳諸を嗜んだのも、ごく白然なことであったのである。 芭蕉が、ついに生涯をともにする俳諧と結ばれたのも、おそらくこの蝉吟の文学趣味に影響されたものであろう。 すでに寛文四年(一六六四)四月に刊行された『佐夜中山集』には「松尾宗房」として、
○ 姥桜さくや老後の思ひ出 ○ 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
の二句を入集している。文献に見える彼の句の最初のものであり、ともに謡曲の文章によりかかって仕立てた句で、言葉の技巧的なおかしみをねらったもの、当時の風体をそなえて巧みである。 翌五年十一月十三日には、蝉吟の発句に季吟の脇句を得て興行した「貞徳十三回忌追善」の俳諧に一座している。一座の連衆は正好・一笑・一以等上野の俳人である。当時上野の武土・町家の且那衆に俳諧が行われ、『続山之井』には、上野の俳人が三十六人も入集している程で、一種の俳壇が形成されていた。 翌寛文六年は芭蕉の生涯の一転機となる重大な年である。その年の四月二十五日、主君蝉吟が僅か二十五才で亡くなったからである。特別に自分に目をかけてくれた主人の死、それは二十三才の多感な青年にとって大きなショックであったに違いない。 殉死を願い出て許されなかったという説(?)があるのも、近世初期の殉死流行期を隔ること遠くなく、有名な「列死禁令」が出たのが僅か三年前の寛文三年であったことを思えば、あながちに伝記作者の理想化の結果ともいきれないが、定かな史料は伝わらない。 六月中旬、命ぜられて蝉吟の位牌を高野山報恩院に収め(確認の史料は見えない)、その後致仕を願い出たが許されず、無断で伊賀を出奔したというのが通説である。出奔の動機についてはいろいろな推測が行われている。通例として、伊賀を出て上洛し修学したと伝えられるが、これまた確実な資料を欠き、推測の域を山ない。芭蕉伝記の中で、史料からは、寛文十二年までの間は全く空白である。そして、六年後に、世上にあらわれて来た芭蕉は、既にしっかりした考えを持ち、驚異的な成長を遂げていた。芭蕉が無断で出奔したように書かれている書も多くあるが。芭蕉と伊賀は江戸に出てからも親密な関係にあり、特に帰郷した折などの交際などから推察すれば、江戸の藤堂家との関係も考慮されるべきである。 自句をも含めて、上野の俳人たちの句を左右に分け、それに宗房自身の判詞を加えた三十番の句合せ『貝おほひ』一巻を、上野菅原社に奉納したのがそれである。ここに集められた句は、当時の流行「小歌」や「はやり言葉」を「種」として作らせたもの、それに加えた宗房の判詞もまたこれらを種とした気の利いた文章で、彼の処女作であり、彼口身の企画と編集になるものである。そしてその自序の末に、 「寛文拾二年正月廿五日 伊賀上野 松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」 と署名している、彼のこの書に対する自身と宗匠的立場がうかがわれる。 自序や跋文などは現在でもその書の格式を示すもので、それを書く自体すでに俳諧における芭蕉の地位を示している。芭蕉の朋友素堂の序跋文や詞書の多さもその地位と名声を押し図る上でも重要である。
現在、伊賀の生家の奥に残された釣月軒、あの狭い薄暗い部屋で、将来を見据えて、昂然と眉を上げて机に向っている青年芭蕉の姿が思われる。 この「貝おほひ」の企画、内容のもつ澗達奔放な気分は、西山宗因に代表される、当時の俳壇の最も前衛的な傾向、爾後数年問、「談林俳諧」へと俳文芸が進んで行った、その路線に明らかに指向されており、その前駆的な意義をもつ作品である。二十九才の芭蕉がいかに俳壇の動き、時代の流れに対して敏感であったかを証明するものである。またこれは芭蕉の中に、この才気を目覚めさせ成長させ、このダンディズムを身につけさせたのは、この以前六年問の空白時代をおいてはないと考えられる。 『貝おほひ」は芭蕉の東下後、延宝初年に、江戸の中野半兵衛から出版された。 芭蕉は『貝おほひ』一編を奉納して、この年の春(あるいは九月)に江戸に下ったと伝えられる。しかし東下の年次は諸説ありこの年ときめられない。 ただ確実なことは、遅くとも三年後延宝三年(一六七五)春以前に江戸に下っていたことと、その前年延宝二年三月十七日、師の季吟から、作法書「埋木』伝受された事実だけである。現在芭蕉記念館に蔵する写本『埋木』巻末に、季吟が自筆でで「宗房生」が「俳諧執心浅カラザルニ依リテ」この季吟家伝の秘書を写させ、奥書を加える旨を書きつけて、「延宝二年弥生中七季吟(花押)」と、著名しているからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月23日 19時07分10秒
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