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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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山梨県の偉人 浅川巧 北杜市高根町

環境保全と国際親善の先駆者

連翹(れんぎょう)の花

忘憂里(マンウリ)の丘

平成四年四月二日 浅川巧の墓参のため韓国を訪問する私たち一行八人を乗せた日航九五一便は、午前十時東京国際空港を出発。予定通り午後零時二十五分頃金浦国際空港に到着した。
 到着ロビーで族行社の出迎えを受け、ガイドが紹介された。その案内のもとに、共同墓地のある忘憂里に直行した。地理に暗く、山の名前もわからないが、岩肌の露出した山のあちこち尼、連翹や山つつじの花が咲き乱れ、柳の緑が美しかった。漢江の北岸を進むこと約七十分、車はソウルの街を西から東に貫いて忘憂里に到着した。
浅川巧の墓
 浅川巧の墓は、はるかに漠江の流れを望むなだらかな山の中腹にあった。彼は、今から六十二年前の今月今日、忘憂里の自宅でなくなり一度里門里(ソルロンタン)の韓国人墓地に葬られたが、後にその墓地が道路工事にかかったため現在地の忘憂里に改葬された。よく整備された墓域には、中央に土を盛りあげた墓があり、墓前右手には、兄伯教の設計になる李朝白磁の壷を摸した高さ約一メートル二・三〇センチの白い花崗岩の墓碑、左手には、一九六六年(昭四一)、韓国林業試験場職員一同によって建てられた「浅川巧徳之碑」があり、墓前中央には、一九八五年(昭六〇)、これも韓国の人々によって建てられた
「韓国を愛し韓国人を愛し、韓国の山と民芸を愛した日本人韓国の土となる」とハングルで刻まれた碑が建っていた。里門里から忘憂里への改葬も月々の墓域の整備も全て韓国林業試験場の人々をはじめ有縁の人々の手によって行われたという。今も墓地の清掃は、名称はかわったが山林鹿林業研究院院長趙在明(ゾザイミヨン)氏をはじめ関係の方々の奉仕によってなされているという。
 私たちは用意された花籠とマッコリ(濁酒)一瓶を墓前に供え、異国の地に淋しく眠る同郷の先人のみ霊に敬虔(けいけん)な祈りを捧げた。拝礼を終ってふりかえった時、ガイドさんがそっとハンカチで目頭をぬぐうのを目にした。墓前に供えた花籠は、成田空港出発前に旅行社を通じて予め準備を依頼したものだが、マッコリは彼女の好意によるものであった。
「故人は、生前マッコリが大変お好きであったと伺いましたので……」
との説明であった。
浅川巧は、今も、韓国の人々の心にしっかりと生きているのである。
墓地の背後の林の中にも連勉の花が咲き乱れていた。
 

伯教・巧の育った風土

北杜市高根町五町田村

 洩川巧は明治二十四年(一八九一)一月十五日、山梨県北巨摩郡甲村(現・北杜市高根町)五町田に生まれた。実家は農業兼紺屋を業とし、養蚕も行った。五町田は八ヶ岳南麓のほぼ中央に位置する高原の村である。地名の由来について二説がある。一つは地主神熱田明神の神領が五町歩余であったことによるとする説、いま一つは御所田の転靴によるとする説である。
 近世には五町田村といい一つの村であった。『甲斐国志』によれば
「村高三一七石二斗五升七合戸九七、口三七二 男一九三女一七九 馬二四 西井出村(現大泉町)ノ南隣り 大八田村(現長坂町)へ三町許り」
とある。維新後、明治七年十一月十七日、五町田村上黒沢村下黒沢村の三村が合併して一村となり、村の中央を商流する甲川に因んで甲村と命名された。
 浅川巧が少年時代を過した五町田の様子を書いた兄伯教の文章があるので、少し長文であるが紹介する。これは巧の没後、昭和九年に『工芸』が」浅川巧追悼号」を編集した時、「彼の故郷と其祖父」という題で掲載されたもので   ある。
 
 甲州と云ふたら、日本内でも山の中で、その北巨摩郡の逸見と云ふたら馬と同居していると人のよく云ふ処で、実際は鰹や鰊やひらきはあの通りの姿で泳いでいるものと子供の時は思ふたものだ。八ヶ岳の南麓の原で、村が十ケ村位ある。甲村と云ふのは其の中程の村で、字を五丁田と云ふた。
 金峰山から出る旭は西の駒ヶ岳に没する。駒ヶ岳に続いて鳳風山、地蔵ケ岳がある。これ等の山を西山といふ白根も極僅かに見える。青田越しに遠く富士が見える。岡の起伏に雑木林があり、間に畑や水田がある。大きな金持ちもなければ、そして貧乏人もない。働けば食へる部落である。
五丁田と云ふのは百戸位の家数で、周囲の部落に用を弁ずる百貨商・古着屋・菓子星・染物屋・紙屋・鍛冶屋・豆腐屋・床屋・医者・仕立屋・大工・佐官などの家があり、半農半商で、この高原の極めて小さな町である。毎月の午の日には、倉原(蔵原:註)の(鎧堂・よろいどう)観音へ参る奥地の人が、ここに出て来て用を弁ずる。
 昼の時計は太陽で、夜の時刻は星で定める。高原の夜の星は都会で想像する事の出来ない美しさを持つ。ことに秋から春にかけては、三つ星さんは最も深い印象を持つ。冬籠りの炬燵から出ては三つ星さんで刻限を計る。
登板を定めて廻る冬の夜番も星の刻限で、一軒々々丁寧に「ご用心なすって(なさって)」と起して歩く。「ごくろうさんでごいす(ございます)」と返事のある迄一夜の中に三回起して歩くのだ。三つ星が斜に駒ヶ岳の上に傾く頃が最後である。
 歳時記の季節を追ふて一年中の行事を行ふ。次から次へと準備備、実行、
完成、収穫と時節に応じてくり返して行く。仕事の間に適当にお祭りが割込ませられる。七夕の星の祭りから空の祭りが始まる。盆祭り、十五夜、十三夜、秋の収穫の済む頃に十ケ夜(とうかんや)、山の仕事が済んでお山の神の祭り、冬篭りに入る。商家の恵比寿講が済んで正月に入る。
 村の青年の十四日祭礼、娘さんたちの祭りの針供養、手習いの子供の天神講、初午祭り、彼岸の寺請、季節に応じて仕事に祭りが織り込まれ、村も人も同じ気分で時を追ふて行く。天候などでも長い経験で不思議な予感を持つ。諏訪口が明けると晴、佐久(長野)風が吹くと雨、駒ヶ岳に嵐が立つと翌日は寒い。上行寺の鐘が聞こえると雨、蟻の歩き方や、蚤を火にして其の音で天気を判断したりする。
 こうした天体の運行や季節の変化、動植物の成長、人事の出来事等に人間の行動を順応させ、そこに詩情を見出きせ、短い詩形の俳句と云ふものが与へられる。
 きさらぎ、水ぬるむ、ささなき、下萌、つくし、たんぽぽ、只こう名詞を羅列しただけでも故郷の春を思はずには居られない。(後略)
 
村の自然のたたずまいや、その自然にとけ込んだ純朴な村人の生活が、淡々とした筆致で描かれていて、読むものにほのぼのとした温かさを感じさせる。

明治九年

 話はややさかのぼる。明治九年六月、山梨県令藤村紫朗は、地租改正に当って地価算定の規準となる米麦の石代について、従来貢納石代相場として用いてきた甲府外三ケ所(鰍沢・黒沢・勝沼)の相場の過去五ケ年の価格を平均した
ものを布達したが、上記四ケ所の平均では全管内の平準を得難いとの批判があったので、四ケ所に加えて峡南の南部村、西八代の市川大門村、峡北の五町田の三村を加えた計七ケ所五年間の平均を算定して米麦価を布達した。
 このことは、五町田村が八ヶ岳南麓の村々の経済の中心的な存在であったことを示しているものといえよう。

中央線の開通

 その後、国鉄中央線が明治三十七年(一九〇四)十二月、長野県富士見まで開通し、日野春駅が開設されるに及んで、逸見台地の中心が次第に日野春へ移っていった。(長坂駅の開設は大正七年十二月)

好学

 ところで、甲村であるがこの村は、好学の村柄であった。大正四年、山梨教育会北巨摩支会発行の『北巨摩郡誌』は甲村の項で
「本村は維新前より学事大いに開け居たり」
 とし、学制旗布前の明治四年五町田村の農家を充てて、博文堂という教育施設を設け、前徽典館学頭須田遵を招聴して教育を行ったこと、明治五年、この学校は逸見郷学校と改められたことが伝えられている。
 また、『高根町誌』によれば、幕末から明治初年にかけて美濃の国安八郡養股村黌(こう)門寺の三男清一郎なるもの霊応寺北門に住居し、漢籍の素読を指南したこと、同じ頃、五町田村小尾伊平の子息圭一が清水源五郎(蕪庵四世彦貫)の跡を継いで清水姓を名乗り、琢礱(たくろう)社を建てて漢学を指南していたが、後に横浜に出て英語を学んで帰り、博文館を開設して漢学に英語を加えて指導したという。
 
 兄伯教の前掲の文章の続きの部分で、時代ははっきりしないが、思朝閑と名乗る上方の人が五町田に来て庵を結んで一生を終った。この人は学者であると同時に諸芸に通じており、生け花は池の坊で東山銀閣寺の百杯に出たとも云
い、京都の公卿の出ともいわれ、伯教・巧の祖父四友はこの人に生け花を学んだともいう。
 この他五町田村とその近郷には、関流の和算の研究グループもあった。明治三年、このグループは近くの郷社熱那神社算額を奉納した。これが県内唯一の算額で、高根町の文化財に指定されている。この様な風土のよってきたる渕源をたどれば、ゆきつくところは兄弟の曾祖父小尾兵之進までさかのぼらなければならないが、この次の項「伯教・巧の系譜」にゆずることとする。

伯教・巧の系譜

曾祖父小尾兵之進

小尾兵之進は、寛政四年(一七九二)五町田に生まれた。諱(いみな)は保教、字は子孝、鳳山と号した。兵之進は通称である。伯教・巧兄弟には曾祖父にあたる。家は代々村の名主をつとめた。幼くして隣村大泉村谷戸の森越義樹について漢学を修め、学は一家をなした。
 宋の程朱を祖述して詩は中唐の元、白居易の詩風を奉じた。
前掲の『北巨摩郡誌』によれば、天保年間、甲府代官松坂三郎左衛門則方は学事を好み、台ケ原・駒井・五町田の三ケ所に学校をおき、小尾兵之進に出講させたという。同書の人物誌-小尾兵之進の項に「私塾を開き子弟を教養すること千余人」というのはこのことを指していると思われる。

俳号、守彦

また、兵之進は俳句を蕪庵二世蟹守に学び、その衣鉢を継いで蕪庵三世となり、俳号を守彦といった。
蕪庵とは、甲州における蕉(芭蕉)風俳諧の結社で、藤田村(現・中巨摩郡甲西町)の五味可都里を創立者とし、二世蟹守までは藤田村が中心であったが、三世守彦以降中心が逸見地方に移り、五町田を中心に発展した。
 守彦のあと、四世清水彦貫・五世植松田彦・六世小尾四友・七世雨山無畏・八世洩川刑洲と昭和初年まで続いた。

『土鳩集』

 『土鳩集』は守彦の撰になる句集であるが、県内外を問わず三百名近い俳人の句が掲載されており、守彦の宗匠としての活躍の広さが推測される。この他、兵之進には『人道俗説弁義』・『鳳山詩文稿』・『新編俳譜文集』等の著作があった。
 兵之進は五町田村の名主としても名里正であった。農事に励み村民をよく教導し、淳朴の風他と大いに異なるところがあったという。特に年貢のとりたては公平で無理がなかったので、村民の信頼厚く三十余年訴訟事は全くなかったという。天保七年(一八三六)八月、甲州全域を震験させた天保騒動に際しては、騒動は五町田村にも及んだが、名主兵之進の処置は極めて適切で、乱後、代官所から銀七杖を下賜されお褒めにあずかった。
 天保十五甲辰年(一八四四)九月四日没、五十三歳であった。辞世の句、
  名月の余波ばかりとなる夜かな
 
兵之進には三人の息子があり、長男五兵衛は俳号を保守といい家を継いだ。次男俊右衛門は、隣村村山西之割村の植松俊右衛門家を継いだ。俳号を田彦といい蕪庵五世である。三男を伝右衛門といい小尾伝右衛門家を継いだ。俳号を四友といい、蕪庵六世である。 

浅川巧の系譜(簡略)

 
祖父小尾兵之進(蕪庵三世守彦)17931844
 三男、小尾伝右衛門(小尾清内家を継ぐ 蕪庵六世四友)18271890
小尾清内 娘 きくと結婚(養子に入る)
      長男 如作(浅川家を継ぐ) 
千野真蔵➡娘 けいと結婚
               伯教 (18841964
               たかよ(18871970
               みつえ(18911921
               巧  (18911931
               政蔵 (18921945
咲子 (18931976
               さかえ(19041981
 

祖父、小尾四友

 小尾兵之進の三男、通称伝右衛門、俳号四友といったことは前説で述べた。浅川巧の父方の祖父である。明治三十四年(1901)一月十六日に七十五歳で亡くなっているので、逆算して文政十年(1827)頃の生まれである。小尾清内の娘きくと結婚して清内の養子となり清内家を相続した。家業は紺屋であった。小尾清内は通称を伝右衛門といい、四友の伝右衛門は養父の名を嗣いだものである。家は代々名主の家柄であり、清内も、天保騒動の時には、兵之進と共に銀五枚を下賜された。兄植松田彦の跡をついで蕪庵六世となり宗匠生活を送った。
 出生前に父を失った巧は、この祖父の庇護のもとに成長した。
前掲の雑誌『工芸』浅川巧追悼号に、兄伯教がのせた「彼の故郷と其祖父」の中で、祖父四友の思い出を次のように語っている。
 そしていつも祖父のことに話題が入ると、「よいお爺さんだったなあ」と思はず言ふて話を結ぶ。お爺さんの性質を最もよく受けて居るものは弟であった。年を拾ふに従って益々お爺さんに似て来た。
 
兄弟の祖父四友への思慕の情が極めて深いことがよくあらわれているとともに、巧の性格が祖父似であったとがわかる。
 四友の相続した小尾清内家も名主の家柄であったことは前述したが、四友自身も村の名主を勤め郡中総代まで勤めたことが、兄伯教の次の文でわかる。
 
旧幕中は郡中絶代とか云ふ役で、この地方の米を集めて幕府に納める為江戸に行った。鰍沢から富士川を下って、岩渕に出で、清水から品川に上り、上納が済む迄江戸に居らなければならなかった。こんな事で何か思ふたものか焼きものを始めたこともあった。職人を入れて窯を作り始めた処が、高火度の土がなくて本焼が出来ず、失敗したらしい。自分が覚えてからも轆轤(ろくろ)や型ものが家にあった。又種壷、徳利がごろごろして居た事を覚えている。物心が出てから籾殻を積んで素焼する事や、土の出場所を教へて貰った事があった。少年のこんな一寸した事が自分等の現今に、こんなに影響するかと思ふと恐ろしくなる。
 
明治二十三年七月十五日、息子の如作(伯教・巧の父親)が、幼い子供二人と妻の胎内灯未生の児をのこしてこの世を去ってから、四友もその妻も「隠居気持ちから心を更へて、孫共を大前にしなければならぬ」と生活態度を変え
 た。手習いの子供が大勢来ていたが、それらをことわって、農業と家業である紺屋の仕事に専念した。兄伯教は、その頃を思いおこして
 
「祖父母も母も、何しろよく働いたものだ」と述懐している。そのような生活の中でも昼食後一時間位は、定まって座敷の柱によりかかって読書をする。自氏文集・七都集・唐詩選などをよく読んだ。
 祖父は俳人としてその天才とも思はれぬが、連歌は達者なものだった。よく遊歴人が他国からも訪ねてきたが、感心して居った事も憶へて居る。祖母の田舎料理は味噌汁と漬けものが自慢と云ふでも無いが、いつも賞められた。別に厄介するでもなく、気安く宿したり泊めたりしたものだ。帰る時には人によっては族費を包んで渡す。この銭は別に持って居った。それは句会に行った時の謝礼其まま中も見ずに小さなカバンに沢山入れて置いて、下から出しては用ひて居った事が死後に判った。謝礼の中を改める気持ちを嫌ったものらしい。
 いつも朝は七部集の連歌を口ずさみ乍ら庭を掃く。狂句木枯の句や、初冬や今年も袴着て帰る、など終り迄全部自分等でも暗誦した位だから、何時でもやって居ったものだ。-中略-朝早く起きて、田の水を見廻る。帰りにはおもだか・水引草・めど萩・ふとゐの様な草花をとって来て、うすばたに挿した。
   - 中略 -
 巧は根性が宜いと云ふてよく嘗められた。自分が十八歳弟が十二歳の春とは成った。ふとした事から風邪を引いて正月を炬燵で過した。裾について月の十六日に去った。病床でどんなに苦しくても七部集を読んでやると喜んで居った。
 変に静になったので、「お爺さん」と呼ぶと返事が無い。驚いてそばに行って見ると、もうこの世の人ではなかった。
 
 明治三十四年一月十六日の朝であった。
 理屈を抜きにして泣き事を云はず、楽に働いて環境に興味を感じ、その内に人のなさけや詩を見出し、所謂、俳人かといふとそうでもなく、百姓かと云ふとそうでもない。学者でもなく仕事の中に俳句を見出し、俳句に仕事を見出し、村に事件が起ると頼まれて行っては何とか片つけて来る。結婚の事から、夫婦喧嘩の仲裁、若い男女のかけおちの後しまつ迄持って来る。
 仕事に貴賤のあるを知らず、何でも働いて暇があれは読書する。裾について眠る迄は其の日の出来事を俳句にまとめる。連歌を詩の対話と心得、心得のある人に過へば直ぐ始める。祖父は結極自然に対してのブルジョアーであった。
宗匠四友の日常生活である。昭和三年五月、門人たちが集って四友の句碑を氏神熱田神社の境内に建立した。
 不断きく 声をはなれて 初烏
 





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最終更新日  2021年04月23日 06時06分58秒
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