カテゴリ:俳諧資料室
**『俳諧』(『俳諧大辞典』明治書院) 一部加筆 和歌・連歌・俳諧用語。『誹諧』とも書いた。 ★【意義】 これは元来中国から渡ってきた言葉で、滑稽を意味する。『古今集』に「誹諧歌」という部立があるのは、ここには滑稽な歌が極めてあるということを示すものである。後に連歌の一体として「俳諧之連歌」というのが生まれたが、これも滑稽な連歌ということを意味するものに外ならなかった。もともと連歌は滑稽から出発したと言ってもいいのであるが、しかし時代を経過するにつれて、真面目で高雅であることが連歌の本質となり、和歌に匹敵するのみならず、和歌を圧倒しさえするものになってきたので、滑稽を主とする連歌は格式の低いものとして、人々から余興としてのみ採り上げられるようになった。それが後には「俳諧之連歌」とは言わず、ただ「俳諧」とだけ呼ぶとともに、連歌の一体ではなく、連歌と対立する別個の文学形式になってしまうのである。勿論歴史が歴史だから、俳諧は百韻だとか五十韻だとか、指合(さしあい)だとか去嫌(ざりぎらい)だとか、形式上・法則上では、ほとんどそのまま連歌のそれを踏襲する。ただ俳諧は滑稽を身上とするものであるだけに、法則上では連歌よりもはるかに自由が許される。形式の上でも、たとえば芭蕉まで来ると、百韻・五十韻のようなものよりも、三十六句を繋げる歌仙形式が最も多く用いられることになった。 ★【史的変遷】」 〔山崎宗鑑〕 俳諧の始祖は山崎宗鑑であると言われている。宗鑑の俳諧はどんな題材を採り上げ、どんな言葉を使ってもいい、人を笑わせ自分も笑いさえすればいいという趣があったために、法則のやかましい連歌に比べてはるかに自由なものになり、また誰でも文字のある者ならやすやすと採り上げることのできるものになったのはいいが、それだけ粗野で低俗で、卑□(?)なものさえたくさんあった。 〔荒木田守武〕 宗鑑よりは少し後に出たが、同じく俳諧の始祖と言われている荒木田守武は、これに反して、いくら俳諧が滑稽を身上とするからと言って、むやみに人を笑わせようとだけ考えてはいけない、すなわち下品になるべきではないというので、無論滑稽を捨てはしないが、しかし排諧をいくらか連歌に近づけることによって、笑いの性質を品のいいものにしようとした。しかし滑稽と自由とは、下品なこと卑□なことを言いちらすのでなくては、十分達成されることがないと考えるほど、当時の一般文化状態は低かったので、むしろ宗鑑の俳諧の方が歓迎され、一時は宗鑑の流れを汲む者の方が、圧倒的だったように見える。 〔松永貞徳〕 それを守武の先例にならって、俳諧を連歌に近づけて品のいいものにし、且つ教訓的なものにしようとしたのが、松永貞徳である。貞徳は無論俳諧と連歌とを区別する。俳諧の俳諧たる所以は、滑稽を身上とし、排言(俗語)を用いるところにありとする。そうした上で貞徳は、俳諧を連歌に近づけようとするのである。そのため俳諧は民衆だけの採り上げるものではなく、学者でも武士でも貴族でも、これを採り上げて恥としないものになった。しかし無理に外面的に 上品なものにしようとすると、とかく体裁だけのもの、変に理知的なもの、原本的な生命のないものになってしまうのは、当然である。貞徳門下、すなわち貞門の俳諧には、真の意味の自由が失われ、生気がなくなり、言わばひからびてこちこちのものになった。そこへ出現したのが、西山宗因である。 〔西山宗因〕 宗因は俳諧と連歌とを截(せつ)然と区別する。滑稽と俳言とに重きを置いて、できるだけ自由に、自分の言いたいことを言いまくろうとする。言わば宗鑑の復情である。しかし宗因は連歌師であり、歌も作り、誠実で品のいい人間だったので、言いたいことを言いま くるとは言っても、決して節度を取りはずすことがなく、機知を縦横に拭うことによって、人を笑わせ自分も笑うというだけで、俳諧を品の悪いものにはしなかった。しかし宗因門下、すなわち談林派の人々は、貞門の俳諧に対する反感もあり、無拘束な自由の享受もあって、次第に乱暴狼藉を極め、後には収拾のつかないほど、天下の俳詣を無政府状態に陥れてしまった。そこへ出てきたのが、松尾芭蕉である。 【芭蕉の俳譜】 芭蕉の俳諧の出発点は貞門の排諧だった。天下の俳諧が談林に移った時には、芭蕉もまた談林に移った。しかし、芭蕉は常に反省と批判とを怠らなかったので、次第に談林から脱け出し、自分自身独自の俳諧を創造し、それによって芸術的に天下の俳諧を統一した。 滑稽と俳言とが俳諧の二大標識であると考える点では、芭蕉はこれまでの俳諧の伝統から逸脱したわけではなかった。しかし、それまでの俳諧がほとんどすべて片手間仕事にしか過ぎなかったものを、芭蕉が自分の全人格、自分の全生活を打ち込んでそれと取っ組み合い、俳諧を真に自己の内生活を表現する器とした点では、俳諧の内容に一大革命を施したと言うことができるのである。 芭蕉は漢詩・和歌・連歌と、過去のいろんな表現機関が見残しもしくは見落した美しさ、もしくはそういう表現機関では到底表現することのできない、新しい美しさを表現するものが、俳諧であるとする。従って、芭蕉から言えば、漢詩・和歌・連歌を綜合して、時代に適切でもあれは自分に適切でもある、抒情詩の新形式が俳諧だったのである。従って滑稽は、芭蕉の俳諧では、人を笑わせることではなくなった。それは自由な、私のない、より高い立場に立って、社会をも自分をも眺める、最高義のフモールにまで内面化される。芭蕉は「俳諧を嫌い、俳詣をいやしむ人あり。ひとかた有ものの上にも、道をしらざる事にはかかるあやまちもある事也。その品なににもせよ、排詣ならざる事更になし。其人甚俳諧をして、事をさばき事をたのしむ」(『三冊子』)と言っている。芭蕉にとって、俳諧は「道」すなわち特殊な生活態度の獲得に外ならなかったのである。俳言の意味もまた芭蕉では、内面化される。俗語を用いなければ対 象の美しさを適切に表現することができないから、俗語を用いるのである。俗語を正すのが俳諧であると、芭蕉は言っている。その意味で、俳諧は芭蕉にきて、その民衆的な本質を失いはしなかったが、しかし俳諧が民衆的であるということは、民衆に媚びるということではない、民衆にアッピールしながら、民衆を高いところへ引き上げることを使命とする、芸術だったのである。そのためには、芭蕉は絶えず反省し精進し、「誠をせめ」て、自分の内面を高めて行く必要があるとする。芭蕉の「不易流行」は、この点を中心とする芸術原理に外ならない。 【俳諧の名称】 最後に、今日では「俳諧」という言葉は余り用いられない。「俳諧」という言葉は、言うまでもなく、百韻にしても五十韻にしても歌仙にしろ、すべて発句とそれに続く付句とを一括して呼ぶ名前である。 しかるに発句は今日では俳句と呼ばれ、ほとんど俳句だけが専ら制作されて、脇・第三以下がずっと続いて行く歌仙や五十韻や百韻などは、あまり採り上げられることがない。従って「排諧」という言葉が次第に用いられなくなるのは当然であると言っていいが、しかしその精神において、「俳諧」について言われうることは、同時に「俳句」についても言われ得るものであることは、断るまでもない。なお、広義には、俳文・俳論等をも含めて、俳文学の意味に俳諧の事が用いられる1 〔発句〕(『俳諧大辞典』明治書院) 一部加筆【名称】 発句の名称は『万葉集』に見えるが、これは短歌の初五文字をさすものである。のち短歌の上の句(五・七・五)をさしていった場合もあるが、本来の名称は、長連歌発生後、連歌(又は連句)の巻頭の第一句(五・七・五)に名づけられたものである。従って発句という場合は、以下に掲げられる連歌(又は連句)に対しての名称で、 独立したものではなかったが、一方に短歌の上句と区別し、他方連歌の第一句としての格式としての制約(十七音・切字・季語)が課せられ、短詩としての完成した形をとることになったので、独立したものとして扱われるようにもなった。単独に作られたものでも、発句としての条件を具備したものは「発句」と呼ばれた例は連歌時代からあったが、独立した短詩形として自覚をもって創作されるようになったのは、俳諧になってからであろう。近世後期にいたって、連句のための発句を立句とよんだのも、単独のものとの区別を明らかにするための称呼である。 「俳句」又は「誹句」とよんだ例は、芭蕉以前以後を通じてままあったが、一般的用語とはならなかった。近代にいたって正岡子規は、連句の文学的価値を否定することによって発句を独立させ、その本来的意味の名称を改めて「俳句」と称し、短詩形として自覚を明確にした。しかし、発句としの基本的条件としての、時節(季)・十七音・切字等については積極的意見をもたず、これを踏襲したので、本質的変革はなかった。 【性質】 発句とは、発端の句という意味で、後に続けることを前綻としての名称で、もと和歌を上・下に二分した上の句に名づけられたものであるが、和歌の上句と異なる点は、発句は、一句としての独立した形と想とをもたなければならないということである。従って、一句の意味が、次の句を付けて完結するような句は発句とは言い得ない。そのためには、表現の上ではっきりと完結した形をとらなければならない。切字とはそういう要請のため案じられたものである。次に発句は、連歌時代、その行われた場所・時節を発句に詠みこむべきであるとされた。これが次第に固定して季題となり、後に俳句は季節をよむ詩であるというような、本質的なものとして考えられるにいたったのである。 以上は外的条件であるが、発句において最も大事なことは、適歌においては長(たけ)高く幽玄に、ひらめにならないような姿をもつこと、俳諧(蕉風)においては、本意たしかに、一句に曲節があり、余意余情が豊かであることである。独立するといっても、一句言いおおせてしまったものでは発句にならない。余意余情もない句には脇がつけられない。従って連句にならないからである。 【作法】 発句の作法としては、芭蕉に取合・不取合の論があり、許六に曲翰の外、題の内の論がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月23日 04時57分08秒
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