山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/22(木)05:13

素堂の俳諧誌上へ 寛文年間

山口素堂資料室(513)

素堂の俳諧 誌上へ 寛文五・六年 ・荻野清氏の説だと、この頃に素堂は上洛した形跡があるとし、大和に遊んだとされる。 寛文七年(1667)伊勢の加友編「伊勢踊」板行。山口信章五句人集。信章名での初出である。加友は伊勢松坂の樹教寺中の法樹院住職で、般舟庵・春陽軒と号し、初め杉田望一(寛永七年六月没)の門人で、後貞門子となる。晩年は同国山田に移り住んだ。寛文七年『伊勢踊」集編集のため、江戸の高島玄札を頼り下った。発句の募集は一年程前から始めたらしい。同年十一月、京都で板行し翌八年になり刊行となる。 〔俳家大系図外〕  加友は同郷の玄札とも親しかったし、京都の季吟を度々訪ねた事が、季吟の紀行文に見える。「伊勢紀行」(貞享四年五月十一日条)林照庵院主加伝に招かれた時の事でヽ加伝は「加友法師の弟子也。加友は京にのほりて拾穂亭にも尋来て、たひたひ俳諧などせし人なれは」とある。  素堂と加友との関係は、加友が寛文七年に江戸に来て滞在した折に、撰集の手助けを素堂がしたと思われる。   寛文八年(1668)28才 「伊勢踊」集    伊勢の加友が帰国の刻馬のはなむけに     かへすとて名残おしさは山々田 この頃の素堂は高島玄札・石田未得・未琢・野々口立圃・高井立志等貞徳門の俳匠にせっしていたと考えられ、寛文五・六年頃から春陽軒加友にも接触していたとも見られ、この頃には北村季吟・西山宗因とも繋がりを持った様である。   寛文九年(1669)29才 ・「一本草」集 石田未琢編 信章で入集。▽素堂、『一本草』発句一入集。未琢編。(俳号、信章)化しかハり日やけの草や飛蛍    信章【未琢】生(?)~天和二年(1682)歿。年七十余か。        本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。 【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク 江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、 両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) 』 (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。   寛文十一年(1671)30才 ・蛙井集 姫氏國や一女をもとの神の春   寛文十三年(1673)32才・「女夫草」集 立儀編 信章で人集▽素堂、 山口清勝編『蛙井集』に発句一入集。(俳号、信章)     姫氏國や一女をもとの神の春   信章【清勝】山口清勝についての資料は少なく、この『蛙井集』は当時の軽口俳諧への非難を述べている。号は「自足子」を名乗っている。乾裕幸氏著『俳諧師西鶴』に掲載の『遠近集』の作者名に、清勝山口氏九良兵衛の名が見える。西鶴が延宝八年(1680)に興行した、『大矢数』(西鶴独吟四千句)の役人中の脇座十二人の中に、山口清勝の名が見えるが、素堂との関係は未詳。 素堂は、寛文十年以降に内藤風虎の俳諧人の集まり「桜田サロン」に顔を出すようになった。恐らく「夜ノ錦」の締め切りに間に合わなかった句を集めて「桜川集」の編集が始まった事に関係があると思われる。信章名(号)に付いては前に触れた通り、本名であるか雅号であるか不明である。「俳諧睦百韻」掲出の点から見ると雅号と考えられる。林家の儒学面での号(子晋)ではなかったかと推測する。  

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