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山口素堂は濁川改浚工事に関与していない その七 濁川工事の概要
さてここで、濁川改浚工事の概要が詳しく著されている資料があるのでここに提出する。
●『山梨県水害史』
古老手記(未見、不詳)元禄九年の条に三月二十八日、 蓬澤村の水貫被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、 川瀬早河杯の様に水足早く落申候。(中略) 桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、 堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。 而して此工事には山口官兵衛なる人補助役として努力し、 其土工の俊成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。(中略) また桜井孫兵衛等によりて、中郡一帯安全の土と為りたる効を沒す可かならず、 地方土民等其遺績に感激し桜井孫兵衛を祭りて、 桜井霊神とし今日至る迄に崇敬を厚うする亦宜なる哉(後略)
●『元禄年間濁河改修事蹟』武井左京氏著『甲斐』第二號P31~36《》印筆者
濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相會する虞に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に至り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻壅塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・國玉・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、往吉村の内畔村にして就中西高橋・蓬澤、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為當時の合流地點より約十四五町の下流西油川(往吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東油川村(富士見村の内)に於いて故障を中立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て
延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移轉を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於いては異議なき旨に付、 同春《延宝二年》中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。 其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
延宝三年(二百五十六年前)正月西高橋、蓬澤村の名主長百姓連書し、
同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。 越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は前舌未曾有の人出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東油川村に於て合流點を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行」方奉行所に訴へたり。
翌三庚千年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
同四辛来年《元禄四年》二月三日川除奉行臨検實地に就き排水路の測量をなしたり、
同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立
同 《元禄四年》五月中「當春、川除奉行實地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、 同月十一日西甘高橋・蓬澤村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に當れるを以て同村の意嚮を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀鑿すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬澤両村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、 同六癸酉年《1693》は四月二十五日、七月二一・四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
翌七甲戊年《1694》富時櫻田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能代官として任に むや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に當り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収獲毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移轉し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
同八乙亥年《1695》四月三十日實地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し 四月二日より川除奉行をして實地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余間とあり)廣き四、五問より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は關係村に夫役を賦課し 四月十五日より工事に着手し西油川村に於て民家拾軒の移轉を要し
五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。 村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る爾来祭祀を懈ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》 此役に要したる人夫一萬三千五百三十四人《延べ人数》
内夫役 三千百四十九人 請負金 二百二十両 其の他 六一十両差分 民家移轉 十七両貳分五百文 総計 三百両三分銭五百文
●元禄年間の濁川の水害史
元禄元年 1678 七月二十日 大出水、田畑皆損、 二十一日 人畜死傷あり。 八月十日 出水、蕎麦皆損、笛吹川唐柏にて切れたる為水引早し。 九月 唐柏にて八月の切所水留をなしたるを以て雨降らずとも水堪へ少しも麦蒔くる事能はず。
元禄二年 1679 四月九日 出水、麦及中作豆小豆皆腐る。 五月二十九日 出水、此年は春より雨降り東之野は半分作物蒔きは不能。 六月 出水、添栗、小豆、等蒔き付けたるも皆損。 二十四日 出水、萩原筋の夕立にて出水。 七月六、七日 大出水、家屋内五、六尺十日迄水湛へ田畑皆損、潰家二軒、 元禄元年の水より三寸多し。
元禄三年 1690 六月六日 出水、家屋内二、三尺、二年の水より一尺少し十日迄水湛へ畑は皆損。 九月六、七日 家屋内少し水湛へ此水村内は十日迄湛へたり。
元禄四年1691 二月三日 川除奉行主張、新掘の水盛を為し幕府に申立。 五月十一日 村役人八名江戸に發足新掘の義に付申立たるも、新掘の落口は上曾村向に當りたるを以て遠慮せらる。 六月四日 出水、家屋内迄水湛へ大豆、小豆腐る。
元禄五年 1692 五月三、四日 出水、元禄四年六月の水と同様。 七月二十一日 大出水、畑皆損。
元禄六年 1693 四月二十五日 出水、麦、大豆、小豆皆損。 七月 ?日 出水、四月より三尺多多し、耕作皆損。 九月 十三日 出水。
元禄七年 1994 五月十六日 出水。 閏五月十九日 出水。五月より三尺多し畑皆損。 七月三日 五月より一尺多し、耕作皆損。 八月二日 大出水。七月の水に一尺多し、六日より家屋内に水湛ゆ、 九日亦切れて二十三日迄浸水。
元禄八年 1995 四月三十日 改修工事、櫻井孫兵衛外一名掘瀬實地検分。 元禄九年 1996 三月二十八日 改修工事、蓬澤水抜仰出さる。 四月朔日 改修工事同上十四ケ村に仰出さる。 四月二日 川除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門見分として出張増坪より落ち口迄千八百間。 四月五日 掘始め板垣、坂折、里吉、国玉、上阿原、七澤、西高橋、蓬澤、畔村、増坪、 上村、小瀬、落合、下鞍冶屋、千二百間は入札せり。
掘始め入札二百二十両にて堀方土手方、 水門打切共に請負西油川民家十軒余堀瀬に相成請負人に申付上村小瀬にて屋敷を下げ、 五月朔日移轉。
元禄九年 1997 五月十六日 掘瀬落成。川瀬早川の様に水足早く相成其の夜の内に村内の水落ち申候。 濁川蛭澤通二口〆 一、長 千九百八十九間 濁川通 此人足 九千六百三十八人 内長 四百七十二間 此人足 二千七十二人 十四ケ村出人足
一、長 千二百四十一間 此人足 三千八百九十六人 内長 四百六十三間 此人足 千七十九人 十四ケ村出人足 外長 二百十六間西 高橋村御杯之内 此人足 四百十三人 土手上置 長二口合 三千二百三十間 人足合 一萬三千五百三十四人 内村出二口合 九一百二一十五間 人足合 三千百十九人
●『蓬澤村明細帳』享保十九年(1724) 貳十年己前元禄拾四巳年 西御丸様内領地の節、石原七右衛門様御検地 庄塚 二間三間 一字庄ノ木 村支配 是ハ山梨群郡油川村の庄塚にて御座候 当村御検地帳四冊 是ハ廿五年以前元禄十巳四年石原七右衛門様御検地帳 桜井孫兵衛様、遠藤次与左衛門様、御印形の本帳より 当村名主預り取持仕候。 高 二百石余 荒川堰入用水掛ケ中候 高 百貳拾七石 余笛吹川を堰入川水掛候 高 百四十石余 濁川を堰人川水掛ケ中候
右三ケ所二て四方用水掛来り申候、当村の儀は前々より水所ニ御座侯て、 満水の節笛吹川堤切込申候時ハ野中田畑不残水押かけ作水損仕候、 勿論当村分内濁川の義も少の田ニも水差つかへ、 当村西高橋両村の野地ひきの場所折々水損仕候、 右濁川往古西高橋村分ニて、笛吹川へ水落込候所ニ笛吹川瀬段々高ク罷成、 水一円落不中候て右両村野中沼ニ罷成り、両村百姓退転ニ及候ニ付、 西御本丸御領地の節桜井孫兵衛様御代官所へ数年奉願、 三十年以前子年(元禄九年)新掘り御普請被仰付願の通水抜申候、 然共地ひきの場所故今水出の節ハ折々水損仕候。
●『甲府市史』第五巻 第四節 「用水と悪水」より。 「西高橋村外七ケ村より石和代官あて濁川普請願書」
乍恐以書付奉願上候 天保十二年(1841)
西高橋村・蓬沢村・里古村・国玉村・上阿原村・七沢村・坂折村・板垣村 右は甲州山梨郡濁川組合八箇村一同奉中上候趣は、 石川筋の儀元禄九年迄は沼地ニて、御高の内側引方被仰付、 例年貢諸役相勤居候共、迚も御百姓相続難相成、 既ニ村々退転可仕体ニ罷在候処、 其節御代官桜井孫兵衛御見立を以、 西高橋村地内より落合村地内迄右川筋長弐千百間余新瀬御普請被成下置、 右沼水干潟ニ相成、元禄十四巳年御検地奉請候場所も有之、 難有相続仕罷在候、依之蓬沢地内字圧塚と申所へ桜井様御神祠相建、 年々両度宛畢今組合打寄祭祀仕候、云々。
『国志』がいかに力説しても、『国志』以前約百年間の間の史料には素堂の関与は見えない。『裏見寒話』などの書にも素堂の関与の記述はなく、『国志』「素道」の項は創作された箇所を含む内容である事が理解できる。『国志』の編纂者は素堂と甲斐の関係や濁川関与をどんな史料から引用したのであろうか。素堂と孫兵衛の会話資料の存在も不可思議であり、引用資料の裏付けが望まれる。『国志』以後の書の史料的価値は薄い。
● 傍らに正辰建立の石碑もあり。(石祠の裏面刻字) 享保十八年 蓬澤村 十二月十四日 西高橋村 この祠は現在移動して祀られている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時53分45秒
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