カテゴリ:山本勘助
…山本勘介被召抱事…
【解題】 有名な片目の軍師・山本勘介の登場である。史家からはその存在を否定されながらも、 哀えぬ人気を持つ鬼謀の入。 天文十三年正月三日に、武田の家老衆打ち奇り、其年中の晴信公御備へ談合いたす。諏 訪郡或は佐久、小県(ちいさがた)敵味方の城に、とらせらるゝに、城取を、能くいたせ ば、千の人数にて、持城を三百にて持は、域の取様、縄ばり、大事の奥儀、有る故なり。 右の城取を、能く存じたる、剛の者、駿河義元公の御一家、庵原(いはら)殿、享衆 (うけしゅう)に、成り罷り有る。今川殿御家を望めども、義元へ召し把へ給はず。此者 は、三州うしくぼの侍なれども、四国、九州、中国、関東迄も、ありきまわりたる侍に て、山本勘介と申す。大剛の武士と聞く。 此勘介を召し寄せ、御抱へあれと、板垣信形、晴信公へ、申上らるゝに付て、知行百貫 の約束にて、其年三月、駿河より勘介を召し寄せられ、御礼を受け給ひて、即座にて、晴 信公、仰せらるゝは、勘介は、一眼、手を数ケ所負い候へば、手足もちと不自由に、みへ たり。色黒ふ、ケ程の無男にて、名高く聞へたるは、能々ほまれ多き侍と、覚へたり。ケ 様の武士に、百貫は少分なりと、有る儀にて二百貫下さるゝ。 扨又、(さてまた)其年の暮、霜月中旬に、信州へ御出馬あり。下句より十二月十五日の 間に、城九ッおちて、晴信公の御手に入る事、偏(ひとえ)に、此山本勘介が武略の故な り。晴信公、廿二歳の御時なり。(品第二十四) この 【訳】 天文十二年正月三日、武田家の家老たちが集って、その年の晴信公の軍備につき討議を行なった。ここで、信州の諏訪・佐久・小県などの敵味方の国境に城をかまえるについ て、城のかまえ方さえよければ、千人の敵に対して味方は二百で持ちこたえることができ る、これは城のかまえ方、設計に重要な秘訣があるからだ、ということがいわれた。 そして、この城のかまえ方をよく心得た強剛が、駿河の今川義元公のご家中、庵原殿の 身内となっていること、この者は今川殿への奉公を望んでいるが義元公がお抱えにならぬ こと、彼は三河の国、牛窪の侍だが、四国・九州・中国から関東各地までを回って修業し た大剛の武士で、山本勘介ということなどがいわれた。 そして板垣信形が、この勘介を呼びよせ、お抱えになるようにと晴信公に申しあげたの で、その年の三月、知行百貫という、お約束で勘弁を駿河から呼びよせられた。 勘弁のご挨拶を受けられた晴信公は、ただちに「勘介は片目の上、数カ所の負傷によっ て手足もやや不白由のように見える。しかも色は黒い。これほどの醜男(ぶおとこ)であ りながら、その名声が高いところをみると、、よくよく能力のすぐれた武士と思われる。 この様な武士に百貫の知行では不足であろう」と仰せられ、二百貫を下された。 その年の暮れ、十一月中旬に信州へご出馬があって、十一月下旬から十二月十五日までの間に、城九つ落ちて晴信公のお手に入ったが、これはすべて山本勘介の武略によるのものであった。晴信公二十二才のときのことであった。(品第二十四) 【注】 山本勘介(助とも)のちに出家して入道道鬼、片目ちんば、無類の醜男だったが、奇策 縦横、よく信玄を助け、永禄四年の川中島合戦では作戦の見通しの誤りの責任を負い、自 ら敵陣に斬り込んで戦死したという。古来有名な軍師であるが、本書(甲陽軍艦)意がに はその実在を証明する記録がなく、架空の人物とする見方が多い。 (この書の刊行は昭和46年) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時44分40秒
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