カテゴリ:古代史料
《甲斐の国庁・国政》甲斐(かい〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
8世紀以後の幹線は御坂路に移っていった。主として金川流域に甲斐国造の伝説と国庁、古代の郷が集中してくるのもその間の経緯を示している。8世紀の初頭701(文武天皇大宝1〕年に大室律令が公布された。この新しい制度に基づいて、 わが県も東海道に属する上国(京都に近い国)として甲斐国を設置した。当然、県治の中心地に国庁が置かれ、地方官である国司が派遣され、行政区分として国、郡、里が構成され、国司の下に郡司が置かれた。そして郡司が里長以下を監督する。一国の組織である郡(こおり〕は山梨、八代、巨麻、都留の4郡が置かれた。 《甲斐の郡・郷》甲斐(かい〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊) 平安時代(794-1192年)の「和名抄」によると甲斐国の郡制は4郡とあり、郷は31郷制がしかれている。 山梨郡於曽、能呂、林戸、井上、玉井以上山梨東郡。 石禾(和)・表門、山梨、加美、大野以上山梨西郡。 八代郡 八代、長江・白井、沼尾、川合、 巨麻郡 等力、速(逸)見、栗原、青沼、真衣、大井、市川、川合、余戸・ 都留郡 相模、古都、福地、多良、加美、征茂、都留。 なお、同じ「和名抄」に「国府在八代部、行程、上25日、下13日」と見え、また「延喜式」は甲斐国駅馬、水市、河口、加吉各5疋」とある。 甲斐の名称は以後中世、近世と続き、ご維新にあたり1868(明治1)年11月、甲斐府が廃されたのを最後に翌年7月28日・甲斐府が廃されて甲府県となり、さらに1871(明治4)年11月20日、甲府県が山梨県と改められて新しい段階にはいった。 <上野晴朗氏著> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時41分29秒
コメント(0) | コメントを書く
[古代史料] カテゴリの最新記事
|
|