山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/18(日)13:51

山梨県の馬に関する参考資料 柳田國男氏著より抜粋

山梨(甲斐)の御牧(みまき)の全貌(46)

山梨県の馬に関する参考資料  柳田國男氏著より引用  祭ノ慎 甲州にては東山梨郡松里村大字松里上井尻組の諏訪明神は例祭旧暦の七月なり。七月一日の日より始めて此の日まで氏子の物忌最も厳重なり。其の間は声高、普請及び縄目を結ぶことを戒め、又祭の日には葦毛の馬を牽き出すことを禁ず。 祭ノ慎東八代郡富士見村小石和組の諏訪明神も葦毛の馬を忌みたまう。里人之を飼うことあれば神必ず之を隠す。 金剛の妙薬 葦毛の馬の糞後世の学者之を記載し更に付加して曰く、葦毛の馬の糞は金剛の妙薬なることは、既に『甲陽軍艦』の松代攻めの条にも見えたり。今御当家に於いて悉く此の毛の馬を忌みたまうとありては、飼う人の無くして次第に其の種を絶やすに至るべし。云々 嶽又は岳 諸国の名山に駒ヶ岳と云うもの多きは善く人の知る所なり。云々(中略)駒ヶ岳に駒の住むと云う説は、北海道の渡島の駒ヶ岳にも在す。 駒形権現 奥州の駒形神は成程古し、神名帳の発表より五十余年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり。《文徳実録仁寿元年(851)九月二日条》箱根の駒ヶ岳に祀られる駒形権現の如きも、安貞二年(1228) の火災の記事に、それより又五百年前の創立とあれども(吾妻鏡)云々 馬頭観音 甲州などの馬頭観音の石像は、今も馬の首を頭上に戴きてはあれど、頭より下は真の観音に成り切って、馬の首は追々小さく、殆ど丁髷ほどに退化しまるもの多しと云えり。(『甲斐の落葉』) 黒駒巡国 最も古き記述によれば、太子の愛馬は四脚雪の如く白く極めて美しき黒駒なりき。推古女帝の第六年の始めに、諸国より献上せし数百頭の中に於いて、太子は能く此の黒駒の駿足なることを見現わしたまう。同じ年の秋太子は黒駒に召し、白雲を躡みて富士山の頂に登り、それより信濃・越路を巡りて三日にして大和に帰らせたまう。(『扶桑略記』) ◎甲斐の黒駒は此の馬の名には非ざりしも、黒駒は早くより甲州の名産にして、且つ俊逸の誉高かりしものなり。  神馬足跡 甲斐の黒駒の遺跡に至りては、太子に対する崇敬と伴いて更に弘く国内に分布せり。(日本書紀雄略天皇十三年九月条) 馬蹄石 先ず本国の甲斐に於いては、東山梨郡等々力村の万福寺の門前に太子の憩いたまいしと云う馬蹄石あり。此の寺今は真宗にしてもとは天台宗、而も聖徳太子を以て開基とする。(『本朝国語』)四つの蹄が四つながら鮮かに現われると云えば(『甲州噺』)勢いはずみに打ち込みたるものにあらずして、静かに且つ確実に印したる痕跡なり。同じく東八代郡日影村字駒飼宿の駒飼石は、五間に三間の石の面に二十一箇所の足跡ありき。上宮太子此地に於いて黒駒を飼いたまうと伝えたり。此石は享保年中笹子川の洪水の障りとなりて多くの民家を損ぜしより、之を割りて川除けの石堤を用い今は其の片影をも留めず。 (『甲斐国志』) 其の他東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野権現の小山に馬蹄石。 同郡松里村大字松里三日市場組の馬蹄石、一名を駒石。 北巨摩郡穴山村字黒駒の馬蹄石。 北都留郡初雁村下初雁組カンバ沢山の馬蹄石などあれど、何れも聖徳太子の伝説を伴わず。 穴山の馬蹄石は黒駒大神の社頭に在れども、此の神は汝と建御名方との二尊を祭り、昔諏訪の神黒駒に乗り此の地に来たりしたまいしより社を立て名を定めたりしと称し、  (『山梨県市町村誌』) 初雁の馬蹄石は数多くの馬の蹂躙したる跡なりと云。(『甲斐国志』)黒駒が聖徳太子の知遇を忝くせしと云うは大和の朝廷にての事なり。富士往来の三日の外、後に郷里に還りたりとも見えざれば、太子の口碑の甲斐に多く存せざるは寧ろ当然なり。   牧野明神… 四方津村(現、大月市)の東を牧野と云、牧野明神の社あり。村民皆牧野氏とす。古牛馬の牧ありにしや。云々 駒宮……… 駒宮村(現、大月市)諏訪明神…(前略)野馬を遂聚め給ふ処を駒沢と云。野馬を捕繋き給ふ石を駒石云。云々 諏訪明神… 中条村(現、韮崎市)古名を牧ノ神社と云。 黒駒明神… 穴山村(現、韮崎市)。駒形明神…(現、須玉町)古牧場の守護神なりと。

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