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2019年05月16日
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カテゴリ:武田信玄資料室
信玄の戦い『 甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏(一部加筆)
ある人が信玄公のお歌として伝えている。
  人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 讎(あだ)は敵なり
「敵国で五十日にわたって作戦を行ない、味方の領地へは通路もない状態のもとで侵掠を重ね、小田原まで攻めこんだうえ、帰途に合戦を行なって勝利を得ている。
 去年の三方ケ原の合戦においては、信長と家康が連合し、十四カ国を領有しているところに攻めこみ、二、三里近くの二俣城を攻略したうえ、合戦に勝利し、遠州三州の境の刑部に、十二月二十四日から正月七日までの十四日間滞在した。この間、天下の主である信長がいろいろと和睦を申しいれてきたうえに、わが家臣の秋山伯曹守信友を信長の婿ということにし、それを口実として末子の御坊という子供を甲府にまでよこしてきた。だが信玄はそれをも無視して、信長の居城、岐阜六里のところにまで攻めかけ、一万余の部隊で出動してきた信長を、馬場美濃守信房が、千に足らぬ兵によって一里あまり追いつめたところ、跡をも見ず岐阜に逃げこんだので、岩村の城を攻めとってしまった。
 このように信玄の武勇は、人をたよることなく、このたびも北条氏政が加勢に出るといってきても、無用と申してあるのだ。これが信玄の武門の手柄である。

【信玄の病は五年前から】 
なお、信玄は五年以前から、この病気は重大なものと考えたため、判を書いた白紙が、ここに八百枚あまり用意してある」
と仰せられ、長櫃から取り出させて人びとにお渡しになり、またいわれた。
「諸方面から書状が来たならば――」の紙で返書をせよ。信玄が病気とはいえ、まだ存命と聞けば、他国から当家の国々へ手を出す者はあるまい。信玄の国をとろうとは夢にも思わず、信玄に国をとられぬ用心だけをするであろう。したがって、三年間は自分の死をかくして平和を保つように。





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最終更新日  2021年04月18日 06時09分02秒
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