カテゴリ:甲斐武田資料室
「武田勝頼の最期」『家臣の叛乱』
(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆) 天正十年二月末となった。 穴山梅雪入道雲殿は、一年ほど前から家康と内通しており、また駿河侍の岡部二郎右衛門も家康に通じていたため、この一味が勝頼公に叛いた。穴山梅雪の奥方は、勝頼公の姉上にあたられるが、その子息勝千代殿を、勝頼公が婿としなかったことを恨んで、甲府から本拠の下山へむかう三十里の道は穴山殿の領分であるから、引き揚げるのは至って容易だった。 この報せが諏訪の陣中に届き、穴山殿の反逆が知れわたると、典厩信豊をはじめとする多くの人びとが、お屋形勝頼公をお捨てして、それぞれの本拠に引き払ってしまった。このため勝頼公のお旗本もあらかた逃げ散って、わずか千人ほどの人数となり、韮崎の新府中城につく。 だが、ここは去年秋からの普請で未完成であり、百人とは籠れぬ状態なので、またまた評定が行なわれた。 「武田勝頼の最期」【御曹司太郎信勝殿の考え】(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆) すると、御曹司太郎信勝殿が当年十六歳ながら賢いお方で、次のように仰せられた。 「勝頼公は、甲州一国のうちによい城がなく、古府中のお館も堀一重の屋敷がまえであることを、信玄公のお考え違いとそしり、日本国にかくれなく、唐国にまでその名のとどろく法性院信玄公を非難されました。そして勝頼公をはじめ、長坂長閑、跡部大炊の介、秋山摂津守、典厩信豊などの人びとが、こればかりは信玄公のお誤りであったなどと悪口しては、この城をかまえられたのです。いまになって未完成であるからと、ここを捨てて古府中に戻られるのは、武門の者の名折れであります。まして古府中のお館をことごとく取りこわし、信玄公まで武田二十七代より伝わる泉水の植木の、一かかえ、二かかえある名のある松の木まで切り倒されたというのは、跡に心を残さず、この城に早く移られるためであったと聞きます。すでに古府中に戻ろうとも、どこにも籠るべきところはございますまい。山小屋などに逃れるよりは、この未完成の新府城においてご切腹なさいますように。この期に及び、どこへ行ってよい目をみようとなさるのでしょうか。武田の御旗、楯無の鎧を焼き、この場で尋常にご切腹なさるべきと存じます。ただ、私はこのような場合、ものを申しあげにくい事情がございます。それはこの信勝の母の縁により、信長からは甥・城介信忠とは従弟にあたりますゆえ、お諌めすることができないのでございます」 だが、勝頼公はじめ、みなの者は、信勝公にご返事もしなかった。 「武田勝頼の最期」【真田・小山田・地域人の裏切り】(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆) 真田安房守は、上州吾妻におこもりになるようにと申しあげたが、長坂長閑は、真田家は一徳斎幸隆以来、わずか三代召使われた侍大将であり、それよりはご譜代の小山田兵衛が申し出た郡内岩殿へのご籠城がよいと判断、この旨を勝頼公に申しあげた。 そこで勝頼公は新府をお立ちになり、古府中に向かわれる。 その途中、お使役の小者たちが、長坂長閑を槍でたたいてやれなどという。これは日ごろ長閑のために知行を横取りされていたためであった。 【三月三日 家臣の造反】 さて、ご一行は古府中におつきになり、一条右衛門太夫殿の屋敷に入ったが、三月三日の朝、下級の侍たちが自分の住居に火をかけ、山中に逃げこもうとして、甲府の西、東、北は帝都の山中や御嶽方面、また穴山殿が坂道してこもった下山方面などへと散っていく。 各領内の百姓どもがいきり立ち、侍たちの女房子供を奪って強盗を働く有様となったので、お旗本の人びとはいうまでもなく、各在郷の侍たちも、男として女房子供の始末をつけるのが第一と、情なくも譜代の主君勝頼公にお援けすることも忘れて散っていった。西郡に領地のある者は東郡に、東郡に領地のある者は逸見へとむかった理由は、自分の領内の百姓たちが、日ごろ年貢を取られてきた仕返しに、領主の財宝を奪おうとしていたためであった。 この有様に勝頼公も、三月三日、東郡勝沼をさして古府中をお立ちになったが、ご父子のお供を申しあげる人数は、もはや六、七百人でしかなかった。(後略)(品第五十七) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 06時06分58秒
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