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2019年05月19日
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カテゴリ:甲府の歴史文学

甲府城の歴史

  
    相川圭次氏 遺稿集より

 

甲府が本県の政治的中心となったのは、永正十六年(一五一九)武田信虎が、外敵の侵入に備えて、それまでの居所石和から移り住んだことにはじまる。

いま甲府城の歴史をみるに当って、武田氏の増築した城と、現在の舞鶴城の沿革を述べて、城郭の発展を眺めることにする。

 武田信虎が居館を躑躅が崎の西に築いたのは「高白斉筆記」によると永正十六年八月十五目で、同年十二月二十日に転居している。本城を積翠寺丸山に築きはじめたのは翌年六月のことである。当時の城郭は、天険を利用した山城(やましろ)と、平常の居所防備のための平城(ひらじろ)とに分れていた。

 甲府の場合は、躑躅が崎の居館すなわち現在の武田神社の地が後者で、積翠寺丸山すなわち、現要害山が前者である。この本城は居館から約二キロメートルの距離にあり、麓からの高さ約二四〇メートル、「甲斐国志」に、「腰曲輪、帯曲輪ノ類段重ナリ、本丸ノ長三拾七間、広拾九間ニノ丸三ノ丸ト云アリ」と見え、本丸の跡など、現在も往時を偲ぶことができる。

 居館は極めて簡単な縄張りの平城である(第一図)。もちろん土塁・濠等の防禦施設があるが、戦闘に際し強力な防禦拠点となりうるものではない。戦国の動乱期に強大な勢威を誇った信玄の居城とくらべるといささか物足りない感がある。これが「人は城、人は石垣、人は濠」などといわれている所以であろうが、軍事的にこれをみれば、甲斐の国は、軍学者のいわゆる国堅固の地であり、甲斐の国自身が城塞ともいうべきであるばかりでなく、とくに信玄の時代は、外部に向かって常に積極的に進出していた時であるから、国内に外敵防禦のための大規模な施設をそれほど必要としなかったからではあるまいか。その後、前傾の代になり、とくに長篠敗戦後、外敵侵入の不安が増大すると、この地を捨ててより規模の大きい、より進歩した韮崎城(新府城)築営の必要に迫られるのである。

 新府への移転は天正九年(一五八一)であるから甲府の、いわゆる古府は六十余年間の武田氏の本拠であった。この南方の城下に、南北四~六条、東西に数条の道路があり、この間に将士の邸宅、社寺があり、さらにその南に商人が居住し、現、元三日町には三日市場が立ったといわれる。分国の政治、経済の中心地として、戦国の世としてはかなり繁栄したのであろうが、詳しいことはわからない。

 現在の舞鶴城は、もと小山城、一条小山城、一条城、赤甲城、甲府城、元禄中、甲府家のときは府中城などともよばれた。舞鶴城という称呼は近年のもののようである。

 この城は、天正十年(一五八二)武田氏が滅亡した後、同十一年徳川写康の所領となった時、城代平岩親吉(慶長十二年、犬山城主となる 明野町に父子の墓がある)に命じて着工したのをその最初とするようである(石和八幡文書)。しかし間もなく、大阪城築造、小牧・長久手の戦・駿府城の工事などで中断された。

この地はもと甲斐源氏の一条次郎忠頼(武田信義の子)の居館のあったところで一条の小山といわれていた地である。この忠頼は、平氏追討に武勲をたてた甲斐源氏の強勢を恐れた頼朝によって、元暦元年=寿永三年(一一八四)、鎌倉で謀殺された(吾妻鏡・東鏡)ので、死後その夫人が尼となってこの地に一蓮寺を創建した。ここは寺城広大で信玄もしばしば詩歌の宴を催したといわれる。一蓮寺は、大正十三年(一五八五)、家康が甲府城の縄張りをしたとき、現在地に移されたのである。

 さて、甲府の地は、家康の関東入国に伴い、天正十八年(一五九〇)豊臣秀勝(織田信長の子)、翌年に

は加藤光泰(信長―秀吉の臣)の所領となった。光泰のとき、築城工事が再開されたが、朝鮮出兵に際し、

光泰が従軍したため未完のままとなった。戦後、文禄二年(一五九三)浅野長政(秀吉の五奉行の筆頭・安芸浅野氏の祖)幸長父子の所領となった。築城は、幸長が慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦功により和歌山に移るまで、その工事が続行された。翌年再び家康の治下に入り、平岩親告城代となり、再度来り工事を続けて完成した。従って、この甲府城の築営事業は、その大部分が浅野父子の力によって行われたものといってよい。

 この城は、東に愛宕山を、西に荒川を控えた一丘陵を利用して濠をめぐらし、石垣を築く等、たくみに人工を加えたものである。鉄砲伝来以後の戦術の変化、武士の城下町来往と産業、交通の完遂にともなう都市の発展によって、近世の城郭は、前時代のそれのように天険のみに拠らず、一国の中心地に、天険と人工とを巧妙に調和させ、軍事的に堅固であるばかりでなく、領主の威厳と外観の壮麗さとを発揮した平城と山城の両特色を兼備したいわゆる平山城(ひらやまじょう)が多く構築されるようになったが、甲府城もこのような近世的城郭の一つである。従って、この時代の城郭は、居館と雌政庁の機能を満たすものであり、さらに消費階級になった武士のための町人の居住地をも包含しているのである。 

われわれは、武田時代の躑躅が崎の要害山城から、甲府城への城郭の発展を眺めることによって、中世から近世への時代の推移を跡づけることができるのである。

 その後の申府城管理は次のように幾度か変わっている。

 

慶長八~同十一一年(五年間)徳川五郎太(義直、家康の子、尾張家の祖)

 慶長十二~元和二年(十年間)天領、大久保長安国奉行、武川衆・逸見衆の諸士勤番

 元和二~寛永九年(十七年間)徳川忠長(秀忠二男、家光の同母弟)

 寛永九~寛文元年(三十年間)天領、大久保忠成等城番

 寛文元~宝永元年(四十四年間)徳川綱重(家光二男)綱豊(六代将軍家宣)父子

 宝水元~享保九年(二十一年間)柳沢吉保、吉里父子

 享保九~慶応二年(百四十三年間)天領、甲府勤番支配

 

ところで城郭は、徳川綱重・綱豊すなわち甲府家のとき、寛文四年(一六六四)破損箇所の大修理をおこない、将軍復古の寵をえた柳沢吉保が城主となった、宝永三年(一七〇六)にさらに修補増築し、市街をも整備した。この当時のことは「裏見寒話」「甲陽柳秘録」等に記されているが、吉里が入甲し、在城十五年に及んだので甲府はすこぶる繁栄したという。その後、享保九年(一七二四)柳沢氏大和郡山移封に際し、城の一部を破却し、さらに同十二年(一七二七)、城内大久保氏屋敷より出火、本丸以下諸櫓門悉く焼失して、その壮観を失った。以後は幕府財政の窮迫に伴い、修築も思うにまかせず、天保年間(一八三〇頃)、町人からの冥加金によって濠の泥さらい、一部の修復をおこなった程度で幕末に至った。

 維新に際しては、慶応四年(一八六八)三月五日、近藤勇の率いる甲州鎮撫隊の入城に先だち、東山道総督参謀板垣退助軍の先鋒が入城し、何らの抵抗もなく城は西軍の手中に帰した。

明治四年(一八七一)兵部省、翌年陸軍省所管となり、六年、内郭の請門を撤去し、濠を埋めて市街地とした。

同三十年(一八九七)中央線敷設のため、清水曲輪の一部を甲府駅とし、三十二年甲府中学校を置き三十七年舞鶴公園とし、大正六年(一九一七)県有地となった。なお県庁舎・議事堂は当時は迫手役所跡にあった。

 甲府城は、中央に内城、その外側に内郭、さらにその外の外郭とから成っていた。

 内城は一条小山の地で、本丸、二ノ丸、東(稲荷曲輪)、南(鍛冶曲輪)、西(清水曲輪・柳曲輪)の五郭からなり、周囲に石垣、濠(一ノ堀)をめぐらし、追手橋・山手橋・柳僑で外部に通じていた。

 内部は南・北二部に分かれ、諸役所・倉庫・武士の邸宅で占められ、土塁と濠(二ノ堀)で囲まれ、迫手口以下十五の見付によって外郭に通じている。

 外郭は市街で町人の居住地である。南・北二区に分かれ、北区は古府の城下の一部で、古府中といわれた。










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最終更新日  2021年04月18日 05時33分36秒
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