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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月24日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲斐源氏検証

 

 鎌倉時代に源頼朝をして恐れられた力を誇示した甲斐源氏、しかし現在の山梨県に於ける甲斐源氏に対する認識は必ずしも確かではない。これは無理もない話で、武田信玄に繋がる甲斐源氏は山梨県にとっては汚れなき武将であり、地域の英雄でもあるからである。

 しかし山梨県内で発刊されている武田関係の諸書には大きな誤差が見られる。今回、甲斐の国司について調べる機会があり、甲斐源氏についても調べてみた。甲斐源氏についてもやはり『甲斐国志』の調査が群を抜いている。しかし甲斐国内の寺社や神社の由緒などの不確かな部分を正面から捉えすぎているきらいもある。

 歴史は有効な史料の積み重ねから導き出されるもので、後世の伝説に近い話を拡大解釈して正当な歴史とすることは許されない。私はこれまで私的に「山口素堂の研究」・「甲斐の御牧」・「甲斐の古道」・「甲斐の古墳」など資料を基に研究してきた。私の歴史調査は、史料がすべてである。それも山梨県周辺の図書館や博物館にある研究史料である。県内でも私論を挟まない古文書や先人の研究書は参考にしている。

 山梨県の歴史書は私論と推論から組み立てられている書が多く見られ、真実の歴史を伝えているとは思えない。

 最近武田発祥の地といわれる現在の茨城県勝田市に訪れてみた。図書館廻りが主であったが、開発の進む中では当時の面影は見られない。しかし武田の発祥は間違いなく茨城県勝田市武田である。しかしこれは近年まで山梨県では一部の人たちしか知らなかったことである。以前から茨城県の歴史書には「源義清、甲斐配流」とあるのに、山梨では「武田発祥の地」とか「甲斐源氏発祥の地」など確かな史料に基づかない、真実を逆なでする伝説が観光の目玉になっている。

 最近の武田関係のイベントは歴史感覚を疑いたくなるものが多い。歴史関係のイベントはともすれば、一般の人々に誤った歴史認識を与えることにもなる事を主催者は留意しなくてはならない。

 古代の遺跡についても一考を要する問題である。大開発による遺跡破壊は深刻で、遺跡調査は開発の速度にはついて行けない状況であり、工事完成の期日を迫られる関係者とっては遺跡調査ほど迷惑な存在はないのである。

しかし中には古代の遺跡発掘を広報に載せ、子供たちと土器作りや発掘までも実施している所もあり、好ましい限りである。それは如何なる情報時代であっても、自らの住む地域を知らせ、教える事は大切な情報であると思われる。現在開発の進む中山間地こそ古代遺跡の場であることを関係者は理解して欲しい。調査報告されないで破壊されていく遺跡の中には甲斐源氏や古代解明に欠かせない遺跡・遺構は多くあるのに違いない。

 今回の『甲斐源氏』も、源義光の悪行や武田一族の裏切行為など正面から見ている書物を参考史料とした。

 県内の著書は意識せずに書したつもりである。将来山梨県を支える子供たちには地域や歴史を真っ直ぐに見てもらいたい、そんな気持ちである。小説的や感情的で、さらに史料を持たない説を市町村や山梨県の歴史として伝える事は歴史関係者の為すことではない。又、不確かな部分は後世の解明に委ねる勇気が必要であり。伝記的な甲斐源氏像からの脱却こそ峡北の古代及び中世の真実に近づく事となるのである。

 ここで奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』を中心に甲斐源氏関係の事蹟を抽出して見る事とする。それは、これまでの甲斐源氏のイメ-ジを一新し、再確認の機会を示唆する内容である。

 

 

 

 

 

 

 

特別掲載 甲斐源氏の祖

甲斐源氏発祥地、茨城県ひたちなか市武田郷 

茨城県ひたちなか市の武田郷の調査に赴くこと四回を数える。最初は認識不足や地理不知もあり、空回りして帰ってきた。その後、少量ではあるが旧勝田市図書館で資料を得ることができた。前はその関係の資料が結構あったように思われたが、合併のせいか本年は昨年の資料を見つけることができなかった。

 完全なものではないが、資料優先で「甲斐源氏発祥の地」を綴ってみる。また二回訪れた武田氏館には管理人のおばさんがいて、親切に案内してくれ、「遠くからたいへんでしたね。どうぞ自由に見てください」とのこと。周囲は新興住宅地で、行き着くまでの時間を浪費したがこの言葉で解消、山梨県の磯貝正義氏の甲斐源氏資料が置いてあった。

 余談ではあれるが、あの日本武尊もたしかに茨城県から忽然と甲斐の酒折に姿をあらわしている。

……新治筑波をすぎて幾夜かねつる……

 これまで武田や甲斐源氏について多くの刊行物や研究書がみられるが、中には史実と大きくかけ離れていて著者の創作や神社仏閣の由緒それに地名から書したものも多い。特に甲斐源氏や武田の発祥が甲斐とする説は、現在でも山梨県には息づいている。

 

【武(竹)田】 

甲斐の武田氏が著名、『新編常陸国誌』に…那珂郡武田郷に起こる。

新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住して、武田冠者と称し父義光の嗣たり…『佐竹系図』とみえ、

次いで…子清光、大治5年(1130)罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。これによりて子孫永く甲斐の人たり。

 

常陸にある武田武将の話

義光(甲斐源氏祖・新羅三郎)-義清-伊沢五郎信光……岩崎五郎七郎信隆-信直(八代郡一宮)-信久(逃げて常陸に奔り行方武井に隠れる。-威信(結城七郎など五人斬る。武井を武田に改める)

【武田 多祁多】

 東南は勝倉村、西は堀口村、北は大島外石川二村に接し、東西七町、南北十八町余ありて、久保、猫山、の二組、中原の二坪を有す。

 即倭名鈔、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に、吉田郡云々武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云、甲斐武田氏も亦この村より出つ、元禄十五年(1702)の石高三百五十六石七斗九升九合。

【沼尾神社】武田大明神

ひたちなか市武田に鎮座する旧郷社。

 創建時は不明であるが、慶安元年(1648)再建されたと記録にあり、武田郷の鎮守として武田大明神と尊称された。その後江戸時代に徳川光圀が神鏡を奉納している。

 神体は衣冠の木像にて長一尺一寸六分あり、社領五斗九升九合。

那珂郡の諸郷

【『和名抄』】

 入野、朝妻、吉田、岡田、幡田、安賀、大井、河内、川辺、常石(ときは)・全隈(またくま)、日下部、志万(しま)、阿波、芳賀、石上、鹿島、茨城・洗井、那珂、八部、武田。

【武田郷の解説』

 倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北に菅谷村あり、其地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す。この辺凡武田郷なること押して知るべし。倭名鈔及地図を按ずるに、この郷東は岡田郷に接し、西は河内郡に隣り、南は那賀川の涯りて、志万郡に対し、北は久慈郡木前、美和両郡に堺を接して、武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、七千石ばかりの地、皆古の武田郷なり。

 古代の武田郷が、菅谷まで広がっていたとは思われない。『新編常陸国誌』が菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院があるので、武田山と武田を結びつけたのである。

 しかし武田山不動院は最初から菅谷の建立さたのではない。『願行流血脈』(がんぎょうりゅうけつみやく)によると、武田不動院は初め高場に建立され のちに菅谷に移され、武田山不動院の名を嗣いだのである。

 武田郷の中心は、現在の武田にあった。平安時代の仁平元年(一一五一)四月八日の吉田郡倉員(くらかず)に宛てた「常陸国留守所下文」(くだしぶん)に「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領地せしむべき事」とある。「荒野;とすれば現在の高野にあたる。また高場不動院が武田不動院とも呼ばれたのは、高場の地が武田郷に属していたからである。

 平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那賀川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に三男義清を那珂郡武田郷に配置し那賀川以北に勢力の扶植をはかった。

【武田氏館】(看板資料より)

 義清は、眼下に那賀川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとって初めて武田氏と称し、武田冠者の名のった、この義清が甲斐国に配流となり、甲斐源氏の祖となるのである。

十二世紀の初め、甲斐武田氏の先祖である源義清、清光父子がこの武田に館を構え、初めて武田氏を称したことが、志田諄一茨城キリスト教大学教授の研究、(勝田市史編纂事業)によって明らかになりました。市では私たちの郷土勝田市が甲斐武田の発祥の地であることを記念し、市民の方々が郷土の歴史に対する理解を深めるとともに、新しいふるさとづくりの拠りどころとなるよう「ふるさと創生事」の一つとして武田氏館を建設しました。

 常陸の国司が申すには、清光という住人がでたらめで、乱暴をはたらき、争いごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に記されている。

 住人清光は、いうまでもなく武田冠者義清の子清光のことである。十二世紀の初めごろの武田郷周辺の地は、常陸平氏の吉田清幹・盛幹父子をはじめ、鹿島神宮の中臣字などの在地勢力と、そこへ新たに武田の地へ居を構えた武田義清・清光らの勢力が張り合っていた。勢力拡張をあせった義清・清光らの行為が、在地勢力の反発を受け、清光「濫行」のゆえをもって告発された。とくに大治二年(一一二七)年に、義光が去ってからは、義清・清光父子に対する抵抗が 一層強まったことが考えられる。

 義光没後の大治五年(一一三〇)十二月、常陸国司藤原朝臣盛輔らによって朝廷に訴えられたのである。しかい清光濫行事件の子細を記した目録がないため、その詳細を知ることができない。(看板資料より)

 






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最終更新日  2021年04月17日 14時03分01秒
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