これまでの武田定説
甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。
これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。
だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。
そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。
義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。
そこでは、
「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶 ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」
と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。
「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。
奥野高広氏の『武田信玄」にも、
「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄をきずいた」と述べております。
甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
しかし、義清は市川荘や青島荘の下司として甲斐国に派遣されたのではなく、市河荘に配流されたのです。また義清の孫信義が最初に武田氏を名乗ったのではなく、義清は初めから「刑部三郎武田冠者義清」として甲斐国に配流されたのであります。
それでは甲斐武田氏の祖となった義清はどういう人物なのか、なぜ市河荘に配流されたのか、などを考えてみましょう。義清の父である新羅三郎義光が、後三年の役のとき兄義家の苦戦を聞き、左兵衛尉を辞し救援のため奥羽に下向したのは有名な話であります。
しかし、藤原為房の日記『為房卿記』、寛治元年(一〇八七)八月二十九日条によると、義光は
「身の暇も申さず、陸奥に下向し、召し遣わすといえども参らなかったので、解任した」
とあります。
『本朝世紀」寛治元年九月二十三日条にも、
「左兵衛尉源義光の停任の宣旨を下さる」
とみえるので、八月二十九日に義光の左兵衛尉解任が決議され、九月二十三日に天皇の決裁が下されたのであります。
義光のこうした強引な行動は、兄弟愛や源氏発展のためだけとは思われない面があるといわれています。義光の兄である義綱は義家不在の京都で源氏の代表者として摂関家に臣従し、武威を誇っていながら義家の奥羽での戦いに協力した形跡がないのです。義光はこれまでいつも兄の義家・義綱の威勢に押されて、自分の力を発揮することができなかったといわれております。そこで後三年の戦いを利用して奥羽に乗りこみ自分の勢力を拡大しようと考えたのであります。
「新羅三郎義光笛吹の石」の真偽
また義光の奥羽下向に際し、つぎのような物語が伝えられています。義光は音律を好み、笙の師豊原時忠に就いて笙の秘曲の復伝をうけ、名器交丸を授けられた。しかし、奥州下向のとき名器の失われるのを配慮して、逢坂山で時忠に返した。さらにその途中、足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたというのであります。現在でも足柄峠には、「新羅三郎義光笛吹の石」というものが残っています。
『今昔物語集』巻第二十四「源博雅朝臣会坂の盲の許に行く語」には、管弦の道に熟達していた源博雅朝臣が会(逢)坂関に庵を造って住んでいた蝉丸という盲人が琵琶が上手であることを聞き、三年間も通い続け流泉・啄木の秘曲を蝉丸から伝授された話がみえております。
また『更級日記」には、菅原孝標の娘が昼なお暗い恐ろしい足柄山を越えたとき、遊女が三人どこからともなく出てきて、庵の前に唐傘を立て十四、五歳の「こはた」という遊女が、空まで響くような凛とした涼しい声で歌ったので、とても感動した様子が記されております。
したがって、逢坂山や足柄山には盲目の琵琶法師や遊女など芸能の徒がたむろしていたのであります。逢坂山や足柄山に芸能の徒がたむろしていたのは、国境などの坂や峠には神霊がこもっており、その神霊が歌舞音曲を好んだという思想が底流にあるのです。『今昔物語集』巻第二十七「近衛舎人常陸国の山中にて歌を詠いて死ぬる語」に、昔、近衛舎人がいた。神楽舎人でもあろうか。歌をすばらしく上手に歌った。この男が相撲の使として東国に下った。陸奥国から常陸国へこえる焼山の関を馬に乗って通ったとき、泥障をたたいて抽子をとり、常陸歌を二、三遍繰り返して歌った。すると、ずっと深い山の奥で、恐ろしげな声で「ああ、おもしろい」といって手を打った者がいる。舎人は馬をとめて、従者にあれは誰がいったのだと尋ねたが、何も聞こえません、と答えたので、頭の毛が太くたるほど恐ろしくなりそこを通りすぎた。その夜宿で寝たまま死んでしまった。だから深い山中で歌を歌ってはいけない。山の神がおもしろがってひきとめたのであろう、といい合ったということである、と記されています。
したがって、義光が逢坂山や足柄山で笙の名器や秘曲を授けた、という話は疑わしいと思うのです。
けれども『今鏡」第七には、豊原時忠は交丸という笙の笛と秘曲を「刑部丞義光といひし源氏のむさのこのみ侍りしに」教えて笛も与えた。ところが義光が「あづまの方へまかりけるに」時忠が見送ったとき、笙の笛を時忠に返して別れた、云々とある。(以下略)