カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐源氏とその庶流武将のこと1『日本随筆』より抜粋 番号は甲斐全体記事のもの。
121、 一条忠頼のこと 三省録(志賀 忍) 甲斐源氏一条次郎頼忠(忠頼)謀反の企てありと聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年六月十六日殿中に於て誅したまふ。頼忠が侍新平太、同武藤與一並山村小太郎等、事の起る見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なをも寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以これを打つと云々。(『武道兵語抄』)
122、馬場美濃守 三省録(志賀 忍) (前文略)甲州の武田信玄の家老の中にて、、別て弓矢の巧者と名を呼ばれし馬場美濃と申たる侍は、戦場常存(在か)申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如件。(『武道初心抄』)
123、三省録(志賀忍) 井伊兵部少輔直政かたられしは、 むかし東照宮、甲州若神子の於て北条氏直と御対陣の時、ある夜大久保七郎右営門忠世かたより、只今若き衆うつよりてうまき料理に候、早々御出あるべしと申こさるゝにより、急ぎゆくむかへば、陣屋の出座に火をたき、自在鎰を下して、平鍋にふつゝかなるをかけて、根芋の葉も茎も、ともに糖味噌にて煮たるなり。座中には鳥井新太郎忠政、石川長門守康道、本多彦次郎康重、岡部彌四郎長盛、大久保新十郎忠隣など、焼火を取り囲み居らるゝ。七郎右衛門座をひらき、萬千代殿これへくと請ぜらる。其芋汁いまだ煮えざるを、手々に椀を盛、舌うちして食ひけり。直政へも椀に堆盛てあたへたるをとり、少し喰けるに、殊の外あぢはいあしく、、食するに耐え難がたく、下にあきて居ければ、流石萬千代殿は、若き衆にて華美まりとて、みなく数椀あらそひ喰ける。七郎右衛門曰、萬千代どのいかゞして食し給はぬやとなり。これに少し醤油を入なばよかるべしと挨拶す。みなみな申やう、それは奢なり、左やうなものが、今こゝにあるべきかとなり、又七郎右衛門申すは、いづれもよくこゝろえられよ。この芋汁の味のわるさをみな賞翫せられ候。手前の士卒これをさへ食することならず。わずか三合の米煮るもせぬ黒米を食ひ、寒苦をしのぎ、暑熱をいとはず、白刃に身をくだき、主人のために命をなげうちて、其ものゝ切なるところ、武道義理により、百姓はまたかやうのものを作り出し、辛苦して主君に収納し、士卒をやしなひ、かやうなるものもおのれが口に入ることならず。妻子も飢寒に及べり。 さあらば大将たる人は、そのこゝろあるべきことなり。今屋形さま次第に敵国を多くしたがひさせ給はゞ、おのく大名になるべき間、只今の芋汁の味を忘れず、士卒を撫愛し、百姓を隣愍あるべきなり。もしこのこゝろわすれ給はゞ、武道おこたり、君臣の義もうすかるべし。屋形様つねずね武道わするべからずとおほせらるゝはこゝなり。臂をはり眼をいからすといふにあらず。家業をつとめよといふことなり。家業の第一は士卒を愛するなり。さなければ大事の用に立がたしといひしを、今耳底に残りて感ずるとなり。 (『故老諸談』)
124、武藤修理亮 三省録(志賀忍) 武藤修理亮は武田信玄につかへて、槍をあらはすこと三十七度、分捕功名数しらず。信玄、勝頼二代の感状を得ること四十二通あり。勝頼戦死の後、小田原にゆき、関東の人に千騎に一騎とほめらるゝはたらき度々あり。小田原北条滅亡の後浪人せしが、福島左衛門大夫まねきむかへて、三千石の所領をあたへたり。関ヶ原一戦のみぎり、度々の功名をあげてかぞへがたし。元和四年正則滅亡の後、また浪人の身となりて、大津浦にまづしくくらし、馬の沓をつくり世わたりとす。折ふし上手にて、馬士ども武藤沓といひて用ひけり。人みなこれをわらふ。ある人いさめて曰、武具馬具を沽却そて世わたりの助とし給へ、武器(?武藤)沓と名をよばはるゝは恥なりといひけれども、かってきゝいれず、はたして加賀利常卿より三千石をたまはりて、武藤沓の恥をすゝぎ、一生槍の場数をいはずして老年を終る。 (『新武者物語』)
125、一条次郎頼忠(忠頼)三省録(志賀忍) 甲斐源氏一条次郎頼忠謀反の企あると聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年(1184)六月十六日殿中において誅したまふ。《中略》頼忠が侍新平太、同武藤與一並び山村小太郎等、事の起こると見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なども寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以てこれを打つと云々。 (『武道兵語抄』)
126、馬場美濃守信房 三省録(志賀忍) 甲州の武田信玄の家老の中にて、馬場美濃と申たる侍は、戦場常存と申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申し傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如件。(武道初心抄)
127、小幡勘兵衛景憲の養子 三省録(志賀忍) 小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。(『明良洪範後編』)
128、馬場美濃守信房 柳庵随筆(栗原信充) 『治乱記』馬場美濃守氏勝とあり。甲州侍大将也。『甲陽記』馬場伊豆守虎貞、大永六年武田信虎に殺されその跡絶たりしを、当屋形教成(来)石民部少輔景政に仰付られ、馬場民部氏勝とめされ、信濃国眞木島の城に置せらる。永禄の比は美濃守とめされしが、長篠にて討死也。『甲陽軍艦』馬場美濃守百廿騎。『□□一書』はじめ教来石民部丞氏勝、天文十五年馬場美濃守と改む。(或は尚房と云)『仏祖統記』馬場民部少輔景政(後改美濃守信房)日豪上人、遠州端和妙恩寺祖。『家忠日記』天正三年五月廿一日長篠ノ戦ニ甲兵多ク戦死シ、勝頼自殺セントスルノ處、馬場美濃守、内藤修理亮踏留リ討死ス、塙九郎左衛門ガ従卒、河井三十郎馬場ガ首ヲ得タリ。
129、糞を嘗む(甘利左衛門) 楓軒偶記(小宮山昌秀) 甘利左衛門尉晴吉は武田家の侍大将なり。松山の城攻に、米倉彦次郎銃に中り死んとす。或云、葦毛馬の糞汁を飲む時は癒べし。米倉云、勇士寧死とも糞汁を飲むべからず。甘利云、忠臣は身を全ふするを上とす。糞汁何難からん。自らころえをとり快飲して曰、味一段よろし。子宜く服すべしと、小倉感じてこれを飲む。遂に痊たり。其情は同じといえども、其意は異なり。人士の黄龍は〓通が吮癰に同く、甘利の快飲は呉越が吮疸に類せり。豈〓通人士と同口して談ずべけんや。惜哉。甘利早歳にして歿し、名を呉起に次ぐ事あたはざるのみ。
130、新羅源氏 夏山雑談(小野高尚) 甲斐源氏を新羅源氏ともいふは、新羅三郎の苗裔なればなり。
131、松平定信・曲淵景露 蜑の焼藻の記(森山孝盛)
寛政三年五月、(定信が)御目付になりて、其年のことになりけり。曲淵景露朝臣 (出羽守・初勝次郎、于時御目付)御作事奉行になりて、西丸吹上御門の升形の塀を修造するに、其比は定信朝臣の計ひにて、御城郭といへ共、故なき堀圍なんどは廃し捨られ、又は御模様替とて、昔より板塀なりしを、此度は損益を考へて、練塀に作りかへて、長き所も直に短くして、無害は改め作られて、専に費用を省かるゝことなりにしに彼吹上御門の升形の時(俗に高石垣とて、外桜田御門よりは高くそびへて見ゆる肝要な塀なり)練塀にすべき由沙汰あるにより、定信朝臣に逢てかゝる事承り候ひぬ。彼所は御郭外より見付第一の所と云、彼所は御城外より塀は元来矢狭間筒狭間を切候こと勿論に候得共、御治世の御在城左迄には不及ゆへか、御外郭の塀何処にも狭間の事に見当たり候はね共、既に筋違浅草両御門の升形には、于今隠し狭間を切て候なり。云々 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月17日 13時57分37秒
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