山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/17(土)12:28

有名人のその少年時代 田中 角栄 たなか かくえい

子供資料室(49)

有名人のその少年時代 田中 角栄 たなか かくえい 『歴史読本 スペシャル』1988-5 「有名人のその少年時代」    大正七(一九一八)~政治家。郵政相・蔵相・政調会長・幹事長とすべて史上初めての若さで就任、わずか五十四歳で総理となる。金脈問題で退陣後、ロツキード事件で逮捕・収監される。    上京した角栄は、訪ねた子爵邸で女中から玄関払いを食った   上京した角栄は、訪ねた子爵邸で女中から玄関払いを食った  宰相の印綬を帯び、位人臣をきわめた田中角栄だ。だが、逆境に痛哭(つうこく)、順境に喜悦。その幸運・不運があざなえる縄のような人生を送った最高権力者もめずらしい。 とくに田中は、幼年期から、いまの熟年期まで、一貫して禍福に見舞われている。  田中は天賦の才能に恵まれていた。大正七年五月四目、新潟県刈羽郡二田村(現、刈羽郡西山町)の農業兼牛馬商の角次・フメ夫妻の長男として生まれた。 村立尋常小学校に入った田中は、ただちに頭角を現わし、すぐに級長になり、卒業する年まで、ずうっと通した。いくら寒村といっても、このような秀才少年は珍しいものだった。だが、田中には、「どもり」という持病があった。これが第一の禍いとなった。 しかし、田中は、第一に学業に自信を持ち、第二にことばに節をつけて怒鳴り、第三に浪花節を唸った。こうして、どもりを克服した。田中は勉強ができたので、中学(旧制)への進学を希望した。だが、まもなく、家庭の事情で断念せざるを得なかった。父・角次は、牛馬商といっても、牛一頭、馬一頭を商う小さな馬喰(ばくろう)ではなかった。北海道・月(つき)寒(さむ)に大牧場を経営する大志を抱いていた。  このため、角次はあるとき、オランダからホルスタイン種の高級な乳牛三頭を輸入した。これが、ホルスタイン種の輸入第一号だ。それだけに大変高価で、一頭が、一万五千円もした。米価が六十キロ、六円から七円の当時だ。いまの時価で約二億円強だ。大変な大バクチだ。角次は、山林や田畑など全財産を抵当にしたうえ、知人にも金を出させた。  ところが、いまのようにジェット旅客機がなかった時代だ。オランダからの長い船旅で途中二頭は死んでしまった。残る一頭がやっと目本の土を踏んだが、疲労から、まもなく死んでしまい、三頭とも新潟に着くまで全滅。角次の雄図ははかなく消えてしまった。残ったのは巨額の借金。家産が傾いた田中は、こうして中学への進学を断念した。  これが、戦後の政界では稀有な「高小卒首相」の誕生につながった。村の高等小学校を卒業した田中は、その才能を借しまれて、近くの柏崎にあった県土木事務所に給仕として入った。だが、雪深い片田舎に埋もれるような田中ではない。近くにあった理研化学工場のオーナーで、理研コンツェルンのオーナーでもあった子爵・大河内正敏の書生として、東京遊学を世話してもらった。天才少年・田中にはじめて訪れるチャンス、幸運だった。  上京した田中は、大雪の朝、めざす大河内邸をたずねた。ところが、応対に出た女中が「突然来てもダメ。殿様は会いませんハ用事なら明朝、工場へ……」といって、玄関払いを食わせた。この一言で田中は、大河内への書生話が伝わっていないものと知って、断念した。  こうして、郷里の人から別に紹介された土建業の井上工業東京支店の小僧、いまの少年店員として住み込みで働くことにした。上京初の挫折だ。  だが、田中は挫けなかった。田中は神田・猿楽町にあった中央工学校の夜間部に通い設計の勉強をした。日中は仕事に追い捲られた上、夜六時から九時までの授業は苦痛だった。それでも田中は、千枚通しを手の甲に突き刺し、睡魔と闘った。そんな田中にまた躓(つまず)きがあった。月給が安く、授業料にもならなかったため、退職。仕事を転々と変えることになった。同時に、学校も研数学館、目土講習会・正則英語学校・錦城商業学校とジプシーを繰り返したがが、どれもモノにはならなかった。  進学をあきらめた田中は、土建業を生業とすることを決意、中村建築事務所に入った。奇しくも同事務所は大河内の理研化学工業の下請けで、田中が同工業に出入りすることになった。ある日、田中が乗ったエレベーターに大河内が乗ってきた。田中は名乗るとともに、三年前の大河内邸玄関払いのいきさつを語った。 これが奇縁となって、大河内の支援で独立、「共栄建築事務所」を創立した。以後、十余年の間、田中は理研化学の下請けとして全国の建設業者の五十位程度の中堅企業に成長することになった。この時代はまさに順風満帆だった。 ところが、田中が二十歳のときの昭和十三年、徴兵検査で甲種合格。同年暮れ、岩手県盛岡市の盛関前兵隊第三旅団第二十四連隊第一甲隊に入隊した。そして部隊は中国東北部(旧満州)に進駐した。  だが、まもなくして肺炎にかかった田中は、野戦病院を転々としたが、かなりの重症で内地送還となった。ただちに仙台市の陸軍病院に移され、医師から死の宣告を受けた。田中自身も死を覚悟した。だが、奇跡は起こった。内地の風土が体にあっていたためか、見る見るうちに回復。ついに‟全快“し、同病院を退院、除隊となった。  田中はあの世から生還した男だ。だが、その後も″禍福人生″は変わらない。               (菊池久氏著)

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