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2019年06月09日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の悪行と評価
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆

 義光は刑部丞という中央官職にありながら常陸国に土着をはかり、そのためには朝廷の命令や骨肉の情をもかえりみたかったのであります。
重幹の子である致幹は、後三年の役に参加しています。『奥州後三年記』によると、後三年の役の発端は常陸国の猛者多気権守宗基の娘と源頼義との間に生まれた女子が美女であり、これを清原真衝の養子である海道小太郎成衡に嫁がせたとき、その婚礼の儀から起こった争いだ、と伝えています。事の真否はともかく常陸平氏が維幹から致幹に至る時代に、源氏と親密な関係を成立させたことが知られるのです。
致幹らの兄弟は水戸、結城、真壁方面に進出しました。とくに清幹は吉田次郎と称し、その三子は吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田、行方、鹿島氏の祖となったのです。義光や義清・清光が関係を持ったのが、この清幹の子どもたちであります。
嘉承元年(二〇六)七月、源義家が世を去ると源氏の棟梁の地位をめぐり内紛がおきるのです。その地位をねらったのは義家の弟の義綱と義光です。『尊卑分脈』には、つぎのような話を記しています。
義光は甥の義忠(義家の第四子)が嫡家を継承して、天下の栄名を得るのをねたみ、郎等の鹿島冠者三郎を語らって義忠を討たせた。三郎が目的を果たしたその夜、三井寺で首尾を待つ義光に報告すると、義光は書状をそえて三郎を弟の僧快誉の宿坊へやった。快誉は前もって深い穴を掘っておき、三郎を捕えて穴に藩とし埋め殺したというのです。
「常陸大橡系図」によると、重幹の孫の成幹が鹿島三郎と称しています。成幹は義光の嫡男義業の妻の兄に当たる人物なのです。
源義忠の殺害は、都の人びとに大きな衝撃を与えました。藤原忠実の日記『殿暦」天仁二年(一一〇九)二月八日条には、「伝え聞く、検非違使源義忠、去る三日夜、殺害され了ぬ」とあり、『百錬抄』にも二月三日夜、源義忠が郎従のために刃傷され、同五日に死去した、とあります。朝廷では義忠殺害の犯人を義綱の三男義明とにらんで、これを追捕し邸内の庭で殺してしまったのです。父の義綱は、これを知って憤激し近江に走ったが、捕えられて佐渡に流されてしまいました。こうして義綱一家は源氏の勢力を抑えようとする朝廷や、それに利用された義光によって悲惨な結末を迎えてしまったのです。
義光は自分の勢力を拡大するためには、兄や甥ばかりでなく、わが子の妻の兄まで殺したり、窮地におとしたりしたのであります。『今昔物語集」と『十訓抄」には、義光が院の近臣として(?)潅勢のあった六条顕季と東国の荘をめぐって争いをしたことが記されています。その荘は常陸国多珂郡の国境に近い菊多荘ともいわれるが、久慈郡佐竹郷とみる説もあります。ここはもともと顕季の領地であったから顕季に理があり、義光に非があることは最初からわかっていたのです。しかし白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのです。
ある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの荘一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、「義光はえびすのようなる心もなきものなり。安からず思わんままに、夜中にもあれ、大路通りつるにてもあれ、いかたるわざわいをせんと思立たばおのれのためにゆゆしき大事にはあらずや」、つまり義光は「えびす」のような無法者だからなにをするかわからない。だから自分の身を守るためにも、あの荘は義光に譲ってはどうかと仰せられた。顕季は涙を飲んで仰造にしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いによろこびただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜のこと、顕季が伏見の鳥羽殿から二、三人の雑色をつれて京に向かったところ、鳥羽の作道あたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季は恐ろしくなって供の雑色に尋ねさせた。すると夜になって供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命令によって警衛している、と答えた。顕季は今さらながら法皇の深いはからいに感謝したというのである。
この説話の信愚性については間題がありますが、義光がいかに常陸国に自分の所領を欲していたかを知ることができるのです。また公家から義光が「えびすのようなる心もなき者」とその無法ぶりを恐れられていたことがわかるのです。





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最終更新日  2021年04月14日 14時31分44秒
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