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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月10日
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縁故節と島原の子守歌について

 

渡辺正已氏著 一部加筆

 

私たち音楽仲間で結成する日本民族音楽学会県支部は、五年前に発足し、民謡の発掘(中道追分を世に出す)や調査、わらべ歌の教材化(平成四年七月五日に、永年に亘って採譜したものを県立文学館にて「わらべうたでつづる甲斐のふるさと」と題して、相川小児童、県立女子短大生らの出演で公演)や、研究発表等を行なっている。

 本橋は、標題の経緯について東京での全国大会会で仲間を代表して発表した概要である。

○はじめに

 「縁故節」は、大正末期に韮崎の山岳会が観光PR用にと、江戸時代から同地に伝わる「えぐえぐ節」を元に編曲した民謡であるが、戦後これと同じような歌詞やメロディーの「島原の子守歌」が九州で作られ全国的にヒットした。

 どちらが原曲であるかについて、これまでさまざまな人々が究明にあたってきたが、確かな証言が得られぬままに、山梨に於ける民謡熱の低さも手伝ってか、はっきりと結論づけて世に発表するに至らずに混迷の状態が続いていた。

 ところが、平成元年七月二十四日付の山日新聞紙上に、ラジオの話題として、民謡のルーツを探る山梨放送制作の「甲州と島原、民謡が結ぶ九百kmの接点」が、平成元年度日本民間放送連盟番組コンクールで最優秀賞を受賞、最後に辿り着いた島原の高齢者から、今まで世に出なかった真実を聞き正すことに成功し、島原の子守歌は甲州縁故節を真似したものであることを立証したというのである。

 しかし、これまでに故植松逸聖氏、故坂口五郎氏、斎藤譲氏、その他の調査研究に携わった人々の証否や記述文書により、すでに真似(盗作?)説が決定づけられていたのである。

(一) 

植松逸聖(本名和一、平成二年没)氏は韮崎の人で、彼が文献として機関紙「中央線」に掲載した第二十二号から、二十五号の中から抜粋したものによると

① 昭和五十六年八月十日付毎日新聞全国訳に、二万活字で、島原の子守歌は盗作?「山梨の民謡にそっくり」と、北九州市高校教諭の訴えが掲載された。同教諭の調べでは、そのルーツは山梨に伝わる「縁故節」という民謡で、メロディーは全く同じ、詩の中の「オロロン……」の部分は、熊本県天草地方に伝わる民謡からのものと言う。

 この教諭は、小倉に住む吉田信敬(当時四十四才)さんで。彼が「島原の子守歌」に関心をもったのは、この年の二年程前、玄海灘に浮かぶ大島(福岡県宗像郡大島村)出身の教え子が、ふと歌った大島に伝わる「七夕の歌」と言われる民謡のメロディーが島原の子守歌にそっくりなのに驚き、早々島に渡り古老に由来を尋ねた結果、戦前山梨からの出稼ぎ人夫の石工たちの歌った歌が、島に民謡として歌い継がれていることがわかった。そこで、山梨の民謡調査員植松氏(当時七十四才)に問い合わせた結果、縁故節のメロディーと全く重なったというのである。

② 縁故節の生い立ちは、「えぐえぐ節」が元歌で、発祥地は北巨摩郡駒城村宇柳沢(現在の武川町柳沢)で、縁故節という名で民謡界に初名乗りを挙げたのは大正十四年七月であったと記録に残されている。

③ 二つの民謡の類似点(縁故節⑥印、島原の子守歌△印)

  宮崎一章(本名康平)作詞作曲にて既に著作権をとっている島原の子守歌にある

「色気なしばしょうかいな」

は、縁故節の

「女が木を伐る かやを刈る しょんがいな」

と全く似ているし、子守歌の最後の部分の「オ口ロン・オロロン・オロロンバイ」は、熊本県天草本島の松島節に細々と伝わっている「潟切節」の最後に同一の歌詞がある。このことについて宮崎氏は、失明、先妻との別れ、夜泣きする乳飲見を抱いてあやした言葉と言っている。以上の二点は偶然の一致とは言えないと思う。

 

(縁故節)来たら寄っとくれんけ 来たら寄っとくれんけ

  (島原の)帰りにゃ寄っとくれか 帰りにゃ寄っとくれんけ

 

(縁故節)あばらじゃけんど ぬるいお茶でも

  (島原の)あばらやじゃけんど おいもめしゃあわんめし

 

これは、どう継ぎ合わせてもメロディーが同じだから、別に不自然さが感じられない歌になる。以上詩を置き換えているだけで、宮崎康平作詞には疑問を抱かざるを得ない。

 因みに歌の発生順をみると、

  • えぐえぐ節(明治以前)

  • 縁故節(大正十四年(一丸二五)

  • 七夕の歌(前述、昭和二十四年(一九四丸) 

  • 島原の子守歌(昭和三十三年(一九五八)

 

である。

 その他いろいろ詳述を略するが、植松氏らの民謡グループは、島原の子守歌があまりに有名になり過ぎたので、その頃の山梨の民謡界の実情から諦め耐えていたという。

 (二) 

坂口五郎氏(元山梨大学教授、昭和五十一年没)の随筆集に掲載された縁故節にまつわる記事の概要

 坂口先生は信州松代の出身で、五十年間県下の音楽教育界の大御所として活躍し、滅びゆく民謡、わらべうたにも情熱を傾けた人で、昭和三十八年頃から縁故節について、山日新聞の学芸欄に度々投稿している。その翌年には島原の子守歌との因縁を探るべく、島原市の教育委員会に原歌、原曲の問い合わせをしたが梨の礫であったようで、実際に島原に渡って、その頃失明の作家であった宮崎康平氏とも対談しているが、結論は島原の本家説でしかなかったようで、民謡をタンポポに例えた、風のまにまに異郷に根づきそこで花を咲かせる現象にたとえ、信州の追分馬子唄が江差追分に変身したように心では、絶対に真似したものであることを信じていたようであるが、自分の一生を賭けて挑んでみても恐らく駄目かも知れないと手記に結んでいる。

 (三)

斎藤譲氏の調査研究

 彼は坂口先生の教え子、私の同郷の後輩で、当山梨民俗音楽学会の顧問でもある。終戦前に応召、教職を去り会社経営をし、民謡等の研究には頗る詳しい。縁故節については執念を燃やし、宮崎氏には何回も電話をし、実際に長崎へも訪ずれ調査している。そして、昭和五十二年六月発行の、故坂口五郎先生の遺稿集「このみち」に、

「島原の子守歌は縁故節である。坂口先生のご貪舌を遂に果たした」。

の文を載せている。彼も、すでに島原の子守歌は縁故節を真似したものであると信じていた。その頃今は故人の三神茂(NHK解説委員)氏と軍隊時代から深い友人関係にあり、三神氏が宮崎氏と知己であることをしり、三神氏に本当のことを聞き正すよう、念を入れて依頼しておいた。たまたま、その後軍隊時代の同期会が東京で聞かれたとき、三神氏から決定的な報告を受けたのである。宮崎康平氏が小学校へ上がる頃は大正末期、第一次大戦後の世界的な不況時代、彼の父による島原鉄道の敷設、作業場で聞いたメロディー、それが縁故節だったのである。

 その頃、全国から多勢の労働者がこの島原地区に集まり、その中に山梨県塩山市(その頃塩山市の周辺には良質の石を産出)出身の石工たちが口遊(くちずさ)でいたのが、まぎれもない縁故節であり、島原の子守歌の起因になったというのである。以上、研究発表というより、継続調査の集大成をしたものであり、機熟した今、山梨にゆかりのある諸賢にその経緯を知ってもらい、少しでも参考になれば幸いであると思っている。            





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最終更新日  2021年04月14日 14時24分29秒
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