カテゴリ:日本と戦争
秀古、入唐(中国侵入)の計画
朝鮮出兵の軍令
一、右人数(五万八千七百人)の書付の次第のごとく、旱々相越すべく候。但し、順風なきにおゐては、相待ち、一日、日和々々見とどけ、まつだひ渡海すべし。しぜん、にか悪しきに越し候て、馬を一ぴき、人を一人、まかりおとし候はば、曲事たるべく候。又、にかよく候に、油断せしめ、あひ越さず候はば、おちどたるべき事。 一、馬は、高麗へまかりわたり候ても、普請の間は、いらざる事候間、総人数越仕切り候で以後、越し申すべき事。 一、右の書付人数の他は悉く、名護屋に在陣仕るべく候。一人も、渡海候はば、曲事たるべし。 一、今度の御陣、船肝要に候あひだ、船数用意いたし候けど、その一ぶん手柄に候条、諸勢の 船つけたて、船奉行どもとして、割札せしめ、受け取りの渡海衆しだいくりに越し申すべ事。 一、高麗の地へ相越し候はば、手前の船ども、その主々として、奉行を一人づつ相つけ、対馬へさしもどし、あとあと人数、相渡すべき事。 一、高麗出師の儀、御うけ申すにつゐては、右の書付のごとく、次第くりに浪海せしめべく候。万一、御うけ申さず、異議におよぶにおゐては、高麗へ近き島々へ人衆ことごとく、あひ移り、船そろへをつかまつり、先後しだいに、先勢におよばず、総人数申し談じ、高麗の地、いづれの浦にても、一度に着岸せしめ、陣どりを固め、普請丈夫に申しつくべし。しかるときは、九州・四国・中国の人数の事は申すにおよばず、くが衆・九鬼以下も、右同前に、一度に相越すべき事。 以上
吉祥寺縁起を献上のこと
そもそも、神功皇后その神、異国退治のとき、長門の国舟木山より材木を伐りい出し、大船四十八艘造らせられ、皇后、そのとき、御懐胎にておはしましそふらひしが、御服まきをめされ、御よろいなされ候なり。そのころ、唐漢献帝、建安五年にあたって、十月十六日、かのとのとりの日、皇后わづか四十八艘にとりのり、高麗国にいたって御渡海なり。異国の大将軍、数万鰹漕ぎい出し、火花をふらし、防ぐ事おびただしく、ここにて、皇后かんじゆの玉をなげかけ給へは、即時に干潮となる。威敵、船よりおりたって、相戦ふところに、又、まんじゆの玉をなげ給へば、海嘯もとのごとく、まんまんと潮みちきたり、太刀、刀におよばず、水におぼれ、戎狄ことごとくうち死にする。かやうにそふらふあひだ、かなひがたくして、様々なげき悲しみ、降参申し、金銀絹帛(けんぱく)八十艘、年々わが朝の帝へそなへたてまっるべきむね、堅約なり。 さて、かうらひみやこの岩に、高麗の王は目ぽん(日本)のいぬなりと、皇后弓のはずにて、書きつけをかせられ、新羅・百済・高羅三か月のうちに、卸本意にたつせられ、十二月五日、皇店卸帰朝そふらひおはんぬ。その縁起三巻写し絵に書きつけさせ、筑前の国那賀の郡志賀の島、吉祥寺におさめをかせられ、十二月十四日に、豊前の国円王寺の峰、北の坊におゐて、皇子(応神天皇)御誕生、これすなはち、今の世の八幡大菩薩なり。こんど、太閤秀吉公人唐御帝(みかど)いでに、志賀の鳥、吉祥寺宮じせうこうそうとう、右の縁起、聚楽へ持ちきたる。 山中橘内を以て、上覧にそなへ奉り、御本意にたつせらるべき奇瑞(きずい)、眼前なり。そうとう防服・金銀拝領、かかじけなき次第なり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 14時18分25秒
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