カテゴリ:日本と戦争
「軍人的空威的帝国主義」
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
会するものは伊藤博文、山県有朋、桂太郎、小村寿太郎。時は一九〇三〔明治三六〕年四月二一日、京都無隣庵会議である。桂太郎は発言した。 「此要求を主張せんとせば、到底戦争をも退くべからず」 かくして日露開戦は既定の方針となった。 日英同盟から二カ月後、ロシアと清国は、ロシア軍の満州撤退に関する条約を結んだ。第一次敵兵は一九〇二年一〇月に実施された。しかしロシアの内務大臣プレーヴエは、 「極東問題一は外交官のペンに依頼しないで銃剣で解決することを要する」 と語り、ロシア閣僚会議は、 「将来満州を必ずロシアに併合し、或はその完全な属国にせねばならぬ」 と申し合わせた。第二次敵兵期日は翌一九〇三年四月であった。ロシア軍は、撤退せず、むしろ奉天、営口地域の軍隊を増強した。七月には粛清鉄道が完成し、八月には極東総督が任命され、旅順の要塞は強化された。 同年四月、ロシア軍は朝鮮に侵入し、鴨緑紅下流の竜巌浦に軍事基地を築いた。これらの事実は、ロシア帝国主義の特徴をよく示している。つまり、軍隊により他国の領土を支配し、その後に資本進出をはかったのである。民衆は農奴制の遺物のために、一層残酷な搾取を受け、極度の貧困に陥れられ、少数民族は差別と乱暴な抑圧に苫しんでいた。 無隣庵会議は、この情勢の中で聞かれたものである。官僚・軍部の首脳がまとめた結論は、日本が朝鮮を独占的に支配しようとすれば、満州を勢力範囲に置かなければならない。それを実現するためには、ロシアとの戦争は避けられないということであった。 翌月、第三次海軍拡張計画が議会を通過した。ロシアの第三次撤兵期日である一〇月を過ぎると、対露強硬論は激しさを加えた。ロシアが撤兵を実行しなかったためである。ブルジョアジ-も、朝鮮と満州市場の独占支配を強く要求するに至った。『東京経済雑誌』は、 「今や民間実業家は大約満州問題に関して開戦諭を主張するものなり」 とのべ、開戦世論を煽った。日露両国政府の間に満州・朝鮮間題に関する交渉が続けられていたが、それは、海軍の動員計画、とくに輸送船の佐世保集結が完了する翌一九〇四年一月まで、開戦を引き延ばす手段に過ぎなかった。 すでに一九〇〇年一一月、幸徳秋水はこれを「軍人的帝国主義」「空域的飴細工的帝国主義」と呼んでいた。日露両国のように、独占資本の弱さを軍事力で補いながら侵略を進める帝国主義を、こう特徴づけたのである。一九〇四年二月六日、日本軍は宣戦布告なしに軍事行動を開始した、二つの「軍人的帝国主義」が死にもの狂いの戦闘をはじめたのである。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時16分56秒
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