山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/14(水)05:54

スポーツマスの講和会議

日本と戦争(80)

スポーツマスの講和会議   著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏     『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆   一九〇五(明治三八)年六月八日、アメリカ大統領は日露両国に「両国自身のためのみならず、文明世界全体の利益のため相互間に直接の談判を開始せんことを切望する」との電報を送った。日露の講和は、帝国主作義列強全体にとって焦眉の問題となっていたのである。  五月二七・八両日の日本海海戦では日本軍が大勝利を占めたが、満州戦線での立場は不利に傾いていた。ロシア軍は奉天会戦以後、新総司令官リネウィッチの率いる七万七〇〇〇の若い精鋭兵士を送り、さらに増強を続けていた。 他方、日本側の現役員はほとんど戦死し、予後備の老兵でようやく戦線を支えている状態だったのである。日本政府は、五月三一日、「満州を独占しない」との条件で、ルーズベルトに正式の講和斡旋を依頼していた。またロシアでは一月以来の革命がますます発展し、五月一日には二〇〇の都市で政治ストライキが起こり、六月に入ると戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を開始し、軍隊に動揺が起こった。 また、フランス資本家は奉天会戦以後、ロシア公債の引受けを拒否していた。この上、日本海軍に樺太などロシア領土を占領されれば、皇帝の威信がいっそう低下し、革命の高揚をもたらすことが予想された。ニコライ二世は六月七日、アメリカ公使と会見し、 「勝利よりも国内の安寧のほうがはるかに必要」 と、講和の斡旋を受け入れた。ドイツ皇帝も革命の波及を恐れて、講和を促した。  講和会議は、アメリカの軍港ポーツマスで開催された。本会議は八月一〇日から始まった。 日本全権小村方太郎は、「韓国を日本の自由処分に任すこと」、「ロシア軍の満州撤退と満州の清国への返還」、「樺太の日本への割譲」、「遼東半島租借権の日本への譲渡」、「ハルピン旅顧問の鉄道の日本への譲渡」、「ロシアは戦争の実費を日本に支払うこと」、など、一二の講和条件を提議した。 ロシア代表ウィッテは、 「ロシアは戦いには敗れたが、屈服したのではない」 と、樺太の割取と償金の支払いに強硬に反対した。またニコライ二世は、 「一ピャージの土地も、一ルーブルの金も」渡してはならないと訓令した。 日本側は原案を固執しようとしたが、アメリカ・イギリス・ドイツの金融市場が日本の公債に応ずる意志のないことを知るに及んで、戦争の再開の不可能を知り、譲歩した。 アメリカは、いずれかの圧倒的な勝利に終わらせず、今後も対立が続くよう図り、日本に、樺太の南半部を判取するだけで償金要求か撤回するよう要請した。ロシア側はいったん会議の決裂を決意したが、革命の高揚の前についにアメリカの斡旋に従った。 講和会議は、結局、日露戦争が国際的な帝国主義戦争であることを示したのである。

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