山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/14(水)05:52

ハーグ密使事件

日本と戦争(80)

ハーグ密使事件    著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏     『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆   「巳保護条約」らこのかた、韓国皇帝李大王には悶々として楽しまない日がつづいた。あらゆるところから条約反対の声が聞こえてくるのだ。 国民が、条約締結のお先棒をかついだ五人の大臣を、「五賊」と罵っていることも耳にしていた。この境遇から抜け出す道はないものかと、宮廷の御雇教師や近親の者にたずねない日はなかった。ある日、オランダの首都ハーグで万国平和会議があるから、そこへ密使を送っては、と献策する者がいた。かれは早速、会議の招集に当たったロシアの皇帝、あてた手紙をしたため、李相高、李儁、李琦鍾(りきしょう)の三人をハーグに旅立たせた。 実際、皇帝も条約に反対せざるをえないほど、朝鮮国内では日本の横暴を恨む声が激しく起こっていた。条約が結ばれて幾日もたたないうちに、条約の内容や締結に至る経緯は広く民衆に知れ渡ってしまった。「皇城新聞」や「大韓毎日申報」がくわしく報道したが、それは秘密のうちに手から手へと伝えられ、全国で数万部も広がったのである。まずソウルの市民が激昂した。職人たちは道具をすて、書堂に通っていた学生は同盟休校に入り、商人は店を閉めた。彼等は至る所で集会を開き、「『保護条約を破棄せよ』とか「倭敵を追い出せ」とか「売国逆賊をやっつけろ」などと叫び、宮廷に向かってデモをかけた。 農村でも暴動がはじまった。それは組織化され、経験の深い指導者に率いられた反日義兵闘争に成長して行った。教百名の部隊があらわれ、忠州金鉱などの労働者も蜂起に加わるようになった。指導者も学校教員、儒生、もと政府の高官など広範な階層から出るようになった。 このような民衆の勤向か、皇帝にハーグヘ密使を派遣する決心をつけさせたのである。 さて、ハーグに着いた三人は、軽くあしらわれた。主催者のロシア皇帝も、イギリス国王もアメリカ大統領もすべて面会を断わり、会議で彼らが朝鮮の実情を訴えることも認めなかった。ポーツマス条約などの取り決めに従うというのがその理由であった。  伊藤統監は、この情報を受け取ると、皇帝に、このように陰険な方法を取るより、日本に宣戦布告をして保護権を拒否したらどうかと脅迫し、翌七月一八日皇帝を退位させた。西園寺内閣からは、この機会を逸せず「韓国内政に関する全権を掌握」すべしという訓令が届いた。 皇帝退位の知らせに朝鮮国民の憤激は高まった。ついに一九〇九年一〇月二六日、ハルピン停車場に降り立った伊藤に、安重根は三発の銃弾をあびせて絶命させた。

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