カテゴリ:日本と戦争
日韓併合
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
「教育ハ教育ニ関スル勅語ノ趣旨二基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トスル」 という法文がある。しかしこれは日本に適用されたものではない。 一九一一(明治四四)年八月、朝鮮総督府が出した「朝鮮教育令」第二条である。 「日韓併合」後には朝鮮民族の魂までも奪う為の支配が強行されるようになった。 これに対して桂太郎内閣は、一九〇九年七月、 「韓国ヲ併合シ之ヲ帝国版図ノ一部トナスハ、半島ニ於ケル我実力を確立スル為最確実ナル方法ナリ」 という方針を決めた。武断政治を強いて反抗を鎮圧する方針はここで固められた。統監政治の間に、財政、金融、貨幣、交通、通信機関などの経済的命脈は日本の手にあったから、残るものは警察権をより確実に握る事であった。伊藤博文に代わった統監寺内正毅は同年六月警察権一切を日本の手に収め、事実上行政権を握っていた。警察権行使の中心になったのは韓国駿價憲兵隊である。約二〇〇〇名の憲兵が、一人につき三名の朝鮮人補助員を使って反乱の鎮圧やスパイ活動を行なっていた。 このように体制を整えた上で、一九一〇年八月二二日、併合条約は調印された。日本の右翼団体黒竜会に操られた一進会は、「国際公法ニヨリ政合邦ノ意義」を各方面に宣伝するという活動を行なっていたが、朝洋人が反対運動を組織することは不可能な状態になっていた。 朝鮮総督府は同年一〇月に発足した。天皇に直属し、朝鮮駐在の陸海軍を統率し、法律を制定する権限を持った。この権限は、一六二四カ所、一万六八四〇名の憲兵・警察網と、戦時編成をとる陸軍二個師団の力によって引き出されたものである。植民地支配に反抗する朝鮮人で検挙された者の数は、一九一八年だけで一四万二〇〇〇余件にのぼっていた。 続いて「土地調査事業」が実施された。土地所有権を確定し、租税の負担を明確にし、土地の売買を自由にする制度をつくり出すためである。所有権の不明確な土地や、総督府の指定した日時に申告に来なかった農民の土地一七万七〇〇〇町歩余が、総督府や日本の土地会社東洋拓殖株式会社の土地になった。 林野の四二%も日本人の手に奪われた。 ここでもっとも力が注がれたのは、朝鮮人の「皇民化」である。制服を着、剣を吊るした日本人教員が教壇に立ち、小学校一年生でも週一〇時間の日本語が教えられた。独立の気持をこめた歌は禁止され、私立小学校も二一○○校から一九一九年には七四九校に減らされた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 05時52分09秒
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