山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/05/31(日)16:09

甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ 二九六五・六メートル)

歴史 文化 古史料 著名人(720)

甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ 二九六五・六メートル) 『甲州の山旅』「甲州百山」 著者(敬称略)蜂谷 緑(はちや・みどり)本名、近藤緑。一九三二年、岡山生まれ。文化学院卒。戦中戦後を安曇野に過し、短歌・演劇に興味をもつ。都立小松川高校時代、「祭」により高校演劇コンクール創作劇賞を受賞。以後「悲劇喜劇」誌に戯曲を発表。のちに山に親しむようになり、雑誌「アルプ」に紀行文を書く。日本山岳会会員。最近は山梨県勝沼町に仕事場をもつ夫と共に甲州の山々を歩いている。著書に『常念の見える町』(実業之日本社)、『尾瀬ハイキング』(岩波書店)、『ミズバショウの花いつまでも』(佼成出版社)ほか。 小俣光雄(おまた・みつお)一九三二年、山梨県北都留郡大鶴村鶴川生まれ。明大仏文科卒。一九五七年、東斐山岳会を創立し、一九七〇年代前半まで、県内でもっともユニークと言われた会の運営に当たった。一九七七年、上野原町内に執筆者を限定した雑誌「雑木林」を発行。同年、写真研究・五入会を創立し、主として町内西原地区の撮影に没頭、一九八七年、個展『西原の人々』をNHK甲府放送局ギャラリーで開催した。上野原町文化財審議会委員。住所・上野原町鶴川一八七~一 山村正光(やまむら・まさみつ)一九二七年山梨県生まれ。一九四〇年、甲府中学(現甲府一高)入学、山岳部に入る。爾来、主に南アルプス全域に足跡を印す。一九四五年、国鉄に入社。一九八五年退職。その間、一度の転勤もなく、四十年間、甲府車掌区在勤の車掌として、中央線、新宿-松本間を約四千回往復。同年、『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を上梓。現在、朝日カルチャーセンター立川で山登り教室講師、日本山岳公会員。 《編集協力》コギト杜《地図編集》中川博樹《地図製作》GEO初版第一刷発行 一九八九年十月三十日第三刷発行 一九九〇年四月二十日発行者 増田義和 発行所 実業之日本杜 山の団十郎と称えられる花圈岩の殿堂、百年の風雪に酎える一等三角点。 駒ヶ岳という山名は、二七万分の一の地図からひろうと、全国に十八座ある。別称もあるので一一ト座を越すのではないか。それが面白いことに、箱根の駒ケ后以西には一座も見当たらないというのはどうしたわけだろうか。その駒ヶ岳の中で、一番標高の高いのが甲斐駒ヶ岳である。これを作家の宇野浩二氏が『山恋ひ』の中で「山の団十郎」と評した。今までこれに勝る讃辞をきいたことがない。 われわれ山梨県人は平気で「甲斐駒ヶ岳」というが、気の毒なのは信州伊那の人たち。彼らは、東にそびえる甲斐駒を「束駒」と呼び、西の中央アルプスの木曽駒を「西駒」といっている。確かに、自分の庭の眼前に見える山に、他国の名を冠するほど、人間はお人好しではない。だから麓の長谷村で、駒の頂上に指導標を建てると「東駒ヶ岳」と大きく書く。これを誰かが「束」の宇をわざわざ削ってしまう。山梨県にたった二つしかない一等三角点の本点の一つだが二二角点名称は「甲駒ヶ岳」である。伊那の人たちの心情もわからないでもないが、やはり、この山は「甲斐駒ケ岳」と呼んでほしい。また歴史的に見ても、甲州の方が早くルートが聞かれているように思えるからでもある。 故山崎安治氏の畢生の労作『新稿日本登山史』によると、藤森栄一氏の『逞かなる信濃』から引用して 「駒ケ岳聞山威力不動尊由来記」の存在を明らかにしている。        ‘ これによると、威力不動尊開祖延命行者は信州諏訪郡上古田村(現茅野市)に寛政八年(一七九六)に生まれた。俗名を小尾権三郎といった。文化十年(一八ー三)六月、尾白川から、翌年は、父小尾今右衛門と大武川本谷からそれぞれあがったが失敗。三年目の六月十五日、二十歳のとき、横手から登って頂上をきわめたと記録している。しかし、文化十一年編の『甲斐国志』に「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル所アリ」と記しているので若干の疑問は残る。 東京白稜会の恩田善雄氏は「鉄驪峰通信」(一九八七年)に延命行者は、はじめ弘幡行者といっていたが、禁裏の高貴な方の病気を法力をもって全快させたので延命行者の名を贈られたという記事を寄せている。私はいままで、弘幡行者と延命行者とは別人だとばかり思っていたが、これで氷解した。 私が甲斐駒ヶ岳に初めて登ったのは昭和十六年の夏であった。白須から、ただひたすら黒木の中を喘ぎ、五合目の屏風小屋に泊まり、翌朝、頂上に立った。石室(金銅仏が安置)が新築されたばかりのように覚えている。 甲州側の話ばかりしたので、信州側にもすこし触れてみたい。こちらでは、「赤河原岳」とか「白崩山」と呼んでいた。甲州側では「駒ヶ岳講」、こちらは「白崩講」といい、前記の恩田氏の記事によると、延命行者の父君や弟子たちによって開山されたとのこと。戸台から赤同原を経て、現在の六合の石室辺から頂上に達していた模様である。 古い登山記は、高遠藩の儒者、高橋利常の長男、高橋敬十郎(臼山と号す)が明治十四年九月に登り「登白崩岳記」を残している。そのあと、木暮理太郎氏が明治二十九年八月、御嶺、木曽駒を越えたあと登っているが、「このあたりでは白崩と称してゐる甲斐駒であった」と『山の憶ひ出』の中で述べている。高頭式氏は『日本山嶺志』を明治三十九年に上梓したが、これには、「駒獄」「白崩山」と二項が載っており、果たして同じ山か異なる山かで、日本山岳会機関誌「山岳」誌上を大分賑わせた。これにとどめをさしたのは明治四十年七月、白崩側から登った武田久吉博士であった。『明治の山旅』には「白崩山と甲斐駒と同一山であることはいまさら議論の余地はない」と一刀両断している。 一つの山の同定に大の男が論争をくりかえし、果ては実地に登山して確かめる。優稚といえば優雅だが、これらの先蹤者たちの足跡の延長線上を辿ることができる私たち、幸せなこととしみじみと思う。 先縦者といえば、この頂上の一等三角点の選定は、明治十五年六月二十三日、内務省地理局で行った。そのあと硯標というが、観測やぐらを明治二十四年七月十日に建てた。そして、あの重い九〇キロもある標石を七月十四日に埋めた。同年九月十二日から二十五日にかけて陸地測量部の矢島守一技師によって観測が行われた(「一等三角点の記」国土地理院)。 一個の訓点のために十年の歳月がかかっている。登山者でこの恩恵にあずからない者はI人もいない。しかし建設の苦労を知る者はあまりにも少ない。そして三角点の石標は「吾関せず焉」とばかり百年の風雪に耐えている。 *       駒ケ岳講の登拝路、甲州の白須や横手から登る人は少なくなった。*       かつて韮崎駅前から夏期早朝、バスが四台、五台と出たのがウソのようである。 広河原まで車、北沢峠まで村営バスを使う。北沢をあがって仙水峠から駒津峰、六方石を経て、右側の夏道、白砂の山腹を斜上、摩利支天峰の下から左に一気に頂上に立つ。  往路を駒津峰に戻り、双光山を経て樹林帯をくだって北沢峠に出る。このルートは夏の午後の強い日差しを避けることができるので人気がある。日帰りは少し無理であるから途中の仙水小屋で一泊するとよい。この小屋の食事は、南アルプスの山小屋の中では一番豪華である。 〈参考タイム〉甲府からバス(二時間)広河原(バス二五分)北沢峠(一時間一〇分)仙水小屋(三〇分)仙水峠(一時間五〇分)駒津峰(二時間三〇分)甲斐駒ケ岳往復(四〇分)双児山(二時間)北沢峠

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