山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/05/31(日)17:29

『甲州の山旅』「甲州百山」三峰岳(みぶだけ 二九九九メートル)

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『甲州の山旅』「甲州百山」三峰岳(みぶだけ 二九九九メートル) 『甲州の山旅』「甲州百山」 著者(敬称略) 蜂谷 緑(はちや・みどり) 本名、近藤緑。一九三二年、岡山生まれ。文化学院卒。戦中戦後を安曇野に過し、短歌・演劇に興味をもつ。都立小松川高校時代、「祭」により高校演劇コンクール創作劇賞を受賞。以後「悲劇喜劇」誌に戯曲を発表。のちに山に親しむようになり、雑誌「アルプ」に紀行文を書く。日本山岳会会員。最近は山梨県勝沼町に仕事場を持つ夫と共に甲州の山々を歩いている。著書に『常念の見える町』(実業之日本社)、『尾瀬ハイキング』(岩波書店)、『ミズバショウの花いつまでも』(佼成出版社)ほか。 小俣光雄(おまた・みつお) 一九三二年、山梨県北都留郡大鶴村鶴川生まれ。明大仏文科卒。一九五七年、東斐山岳会を創立し、一九七〇年代前半まで、県内でもっともユニークと言われた会の運営に当たった。一九七七年、上野原町内に執筆者を限定した雑誌「雑木林」を発行。同年、写真研究・五入会を創立し、主として町内西原地区の撮影に没頭、一九八七年、個展『西原の人々』をNHK甲府放送局ギャラリーで開催した。上野原町文化財審議会委員。住所・上野原町鶴川一八七~一 山村正光(やまむら・まさみつ) 一九二七年山梨県生まれ。一九四〇年、甲府中学(現甲府一高)入学、山岳部に入る。爾来、主に南アルプス全域に足跡を印す。一九四五年、国鉄に入社。一九八五年退職。その間、一度の転勤もなく、四十年間、甲府車掌区在勤の車掌として、中央線、新宿-松本間を約四千回往復。同年、『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を上梓。現在、朝日カルチャーセンター立川で山登り教室講師、日本山岳会会員。 《編集協力》コギト社《地図編集》中川博樹《地図製作》GEO初版第一刷発行 一九八九年十月三十日第三刷発行 一九九〇年四月二十日 甲駿信の県境の小さな頂、馬鹿尾根と呼ばれる仙丈岳・塩見岳間の長大な尾横筋のジャンクション 東京麻布高校の佐倉毅君が北岳稜線で遭難した年だから、昭和二十八年の夏のことである。甲斐駒ヶ岳から仙丈岳を越え、両俣を経て、白峰三山の頂を踏んで奈良田におりる一週間の山旅をした。学校山岳部ならいざ知らず、若者十三人(うち女性四名)という大部隊で、戦後初の野呂川右俣遡行というものであった。印象深かったのは、八月九日、奈良田でこの日限りで馬車軌道がなくなるという、その最後の馬車に乗ることができたことである。この馬車は途中何度も脱線をした。そういえば、この話も脱線気味。書きたいのは、右俣の遡行のことである。天気悪く、ガス、強風雨の中、やっと主稜線の縦走路にとびだした。岩屑はぬれて、踏み跡すらはっきりしない。今日の予定は、間ノ岳を越えて農鳥岳とのコル、農鳥の石室で幕営である。右に行くべきか、左に行くべきか。現在位置がわからないのである。中白峰と間ノ岳の間であれば右に、三昧岳と間ノ岳の間であれば左に行かなければ問ノ岳には立てない。 しばらくルート探し。深沢好文リーダーの象のような目の笑顔が深いガスの中からヌーとあらわれた。現在地は三峰岳寄りだと自信をもって宣言した。当然、その根拠はききたくなるもの。彼いわく、牛奥さんの遭難碑があったからだ。碑の前には大腿骨も供えられている、と。 また雨脚が速くなった。隊列を整え出発。すぐにその石碑を左上にみて、問ノ岳を越した。農鳥の石室は、石がこいだけで、棟木がわずかに残されていた。その牛奥さんというのは、大正十五年七月十三日、この地に亡くなった。当時、東京の東海銀行の出納係であった牛奥富昌氏(二十四歳)である。もう六十年以前の出来事であるから関係者から直接話をきくことはできない。手許にあるいくつかの資料をつづり合わせると次のような状況がうかんでくる。 牛奥さんは、芦安の人夫青木要造氏をやとい白峰縦走を計った。前日広河原小屋に泊まり、十三日は間ノ岳石室(現在の農鳥小屋)をめざした。天気わるく、間ノ岳で暴風雨となった。山頂で要造の帽子がとんだ。牛奥氏をその場に待たせ帽子をひろって帰って来たら牛奥氏の姿は見えない。一帯をいくら探しても返事すらかえってこない。急を告げるべく村にかけくだった。直ちに青年団、消防団が出動。結局一ヵ月後の八月十三日、間ノ岳から三〇〇メートルくらい三峰岳に寄った山稜の凹地で発見。右手を石に掛け、右足は石の上を踏んで登る形をしたまま息絶えていた。遺体はその場に岩埋を積んで埋葬し、翌年改めて骨をひろった。そのあとの一周忌に、甲斐山岳会によって追悼碑が建てられた。要造は、それから決して山案内を引き受けなかったという。 昭和三十年の夏、私は再び現場を通過して塩見岳へと縦走した。碑の前には風雨に耐えた白骨が安置してあった。その後も何回か通ったが、それっきりその姿を見ることはなかった。さて、三峰岳というのは三昧川の源頭の山という意と、山梨、静岡、長野の県境の山の意とし三国岳、三棟岳ともいわれている。最近では一白峰から塩見岳に縦走する場合、島鳥小屋から三国平まで、間ノ岳の南山腹を巻く新道を利用するパーティが多い。農鳥岳を往復後、間ノ岳を登りかえす手間がいらないからである。だから、以前のように、この頂をふむ人数は少なくなっている。ことほど左様にとるに足らない小ピークではあるが、数少ない南アルプスの山小屋四つを望見できるのは楽しみである。目の前、行く手の山腹に熊ノ平小屋、うねうねと続く仙塩尾根の彼方、塩見岳の右府下に塩見小屋、さらにはるか、三伏峠のたるみの右に小さく三伏峠小屋、大井川来県の源流をへだてた所、西長島岳下に、ちらっと長鳥小屋の赤い屋根、風の向きでは、小屋で飼っている大の遠吠えすら聞こえる時がある。 話はかわるが、南側のカラッとした大井川の源、正面の仙丈岳まで大きく上下する馬鹿尾根、これを境に、右側の大雑把な岩屑の野呂川右俣、左は三峰川沿いの樹林帯の尾根が塩見岳まで、それぞれが自己主張をしている三者三様の景観である。でもこれらの河川、めぐりめぐって末は太平洋へ。因果はめぐる世のならい。頂に立つと何時もそんな思いにかられる。因みに仙塩尾根というのは、仙丈岳-三昧岳-塩見岳を結ぶ長大な尾根をいう。余談だが、前述の深沢好文氏は昨年(一九八八年)亡くなられた。私より二つ若いのに、頑健な彼も病魔にはかてなかった。 *       この頂だけを登ろうという人は皆無であろう。そこで、あえて、このピークに立つコースを設定してみたい。白峰三山の三千メートルの稜線漫歩を計画するとき、北岳周辺の小屋から農鳥小屋までは半日コースとなる。それを問ノ岳から三昧岳を越え、三国平から大井川の源流部のトラバースルートを使って農鳥小屋に至れば、ちょうど一日コースとなる。間ノ岳のドームから西に岩廸の尾根を行くとこの頂に達する。南西に塩見岳を正面に見ながらハイマツの切り明け尾根をくだると開けた台地、三国平となる。これから左に、ウネウネと続くトラバースルートに入る。大井川の源流の水のしたたる地点を過ぎ、大きくくだり登りかえすと、農鳥小屋の手前で白峰の縦走路と合し農鳥小屋の人となる。 〈参考タイム〉間ノ岳(四〇分)三峰岳(一時間)三国平(二時間三〇分)白峰縦走路(一〇分)農鳥小屋 

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