山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/06/01(月)17:19

芭蕉 江戸市中の生活

歴史 文化 古史料 著名人(720)

芭蕉 江戸市中の生活 編者 松尾芭蕉記念館    平成元年三月刊     一部加筆 山口素堂資料館 京都に遊学中の宗房は、貴族の栄華に培われた伝統文化の、強くてしなやかな底力をつぶさに体験することができました。 しかし、千年の伝統を土壌にもつ京都は、新しいものの芽吹く処ではないことを知った宗房は、自分のめざす新しい俳諧の種子を播くため、江戸に向かって出発したのでした。 将軍さまのお膝元として新興された江戸の光は、すべてにわたって新興の気選にもえていました。江戸の光こそ、京都・大坂の旧文化に対抗して、新しい文化の芽生える光であり、今こそ新しい俳諧をたてるに適当な時期、であると、宗房は思ったのでした。 当時江戸の俳壇には、貞徳・宗因に匹敵する有力な人物がいなかったばかりか、俳壇仲間の動きも気まぐれな、きわめて不妥定なものでしかありませんでした。そのことがかえって、伝統へのこだわりとか宗匠への気づかいといったものもなく、自由な天地にも思えました。 江戸へ出た宗房は、日本橋小田原町にある、幕府出入りの魚商・杉山杉風(さんぷう)のもとに草鞋をぬぎ、やがて小田原町にある小沢ト尺の借家に移りました。この日本橋周辺の死は、江戸の経済の中心地であると同時に、江戸俳壇の中心地でもあったからです。 宗房はまもなく、江戸俳壇の有名な宗匠たちと交流をもち、著名な撰集に次々と入集し、貞門や談林の宗匠たちから、有望な新進作家として注目されるようになりました『宗房』の名を『桃青』と改めるこの前後、上方の地から江戸下りする宗匠たちも多く居ました。 ちょうどそのころ、大坂を本拠に活躍していた談林の主宰西山宗因が、江戸下りしてきたのを迎えて催された俳席(句会)に、桃青と改めて出座(参加)した桃青は、高野幽山の執筆(書記役)という立場で、俳諧師としての実務を勉強することになりました。そうした機会を重ねがさね経験するなかで、桃青は、宗因が主唱する談林の新風に心酔して、山口素堂とともに両吟の歌仙を巻き、俳諧師としての地固めをすることができました。 しかし、その生活はひどく苦しく、その修学は、文字どおり血のにじむような努力と忍耐の連続でした。水道工事の日雇い書記となり、かろうじて生活を維持したといわれるのも、この時期のことであります。 挑青と宗匠立札   編者 松尾芭蕉記念館    平成元年三月刊     一部加筆 山口素堂資料館 この頃には『宗房』ではなく、『江戸松尾挑青』という号で出句するようになり、また『座興庵桃青』と署名したものもあり、一人前の俳諧師となった桃青の名が、江戸俳壇に定着してゆきました。  同じころ、京都の西行末達の『俳諧関相撲』に、京都・犬坂・江戸の谷都会でもっとも著名な俳諧師が、十八名紹介されました。その中の一人に、挑青の名が選ばれています。また延宝八年四月に刊行された『桃青門弟独吟廿歌仙』は、桃青を慕い入門してきた有能な門人、杉風・ト尺・其角・嵐雪らによる歌仙に、桃青が判詞を加えたもので、彼の地位はますます堅固不動のものとなったのです。  しかし、そのあこがれの宗匠になったとき、挑青はすでに、月なみな俳諧師の生活、つまり卑俗な発句を大量に作り出している日常の毎常に、強い疑いと反発を抱くようになりました。「そうだ、私が一生を捧げようと思っている仕事は、このような成金町人の題味に媚たり、権勢ぶった武士の俳席に列座して、いたずらに教養よって知識を誇示したりするような、いやしい--駄洒落--の世界ではなかったはずだ」桃青は俳壇で自分の地位が固まるにしたがって、ますますそういう内心への悩みに責められはじめました。 この間の挑青の苦悩は、真剣で深刻なものであったようです。そうした苦悩の中に開花のごとくきらめいたものは、京都遊学の時代に無我夢中で思索し続けた中国古代詩人たちの詩想であったのです。「四十にして惑わず」という論語のことばのように、三十七歳の挑青は惑いに惑い、その冬、深川の草庵に隠れ退きました。  こゝのとぜの春秋、市中に住詫て居を深川のほとりに移す。長安は古来名刹の地、空手にして黄金なきものは行路難しと、云けむ人のかしこく覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや    しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉  挑青  市内から離れて、川べりの新開地にある深川の草庵は、苦悩をいやす絶好の地でもありました。      深川冬夜ノ感    櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ  挑青      富家喰肌肉丈夫喫菜根予乏し     雪の朝独り干鮭を噛み得タリ  挑青    (ゆきのあしたひとり からざけを かみえたり) この草庵は、泊船堂と名づけた杜甫の草堂にまねて、自らも泊船堂と号したのですが、やがて、門人の李下から贈られた庭の芭蕉にちなんで、--芭蕉庵--と名づけました。 ばせを野分けして盥雨を聞夜哉  芭蕉 それまで、桃青・泊船堂・破蕉(はしょう)・芭蕉と、さまざまな号を用いましたが、なかでも『芭蕉』の号は、「山中に生い茂るとも建物の用材にもならぬ」という、社会的無力の象徴ともいうべき意味を含むものであったのです。 --芭蕉--を号するようになった挑青は、それ以来、好んで『芭蕉庵挑青』の署名を多く用いました。 芭蕉庵の焼失 その芭蕉庵が、駒込大円寺から出火の大火に類焼したのです。天和二年(一六八二)十二月二十八日の出来事でした。世にいう「八百屋お七の火事」のことです。 焼け出された芭蕉ははげしい挫折感におそわれ、江戸の地を離れて、甲斐(山梨)の谷村の高山糜塒(びじ)を頼り、半年ほど滞在したのですが、門人たちのすすめで、江戸に帰りました。 その翌年(註 正しくは、天和三年九月)の冬、素堂らが資金あつめをして建ててくれた芭蕉庵の再興ができ、ようやく不惑の半を乗り越えるまでにいたったのですが、またしても、避けることのできない不幸な出来事が超こりました。 故郷にいる母親がなくなったという知らせが、兄の半左衛門から届きました。そうしたさまざまな苦悩や難関を乗り越えるたびに、芭蕉は、今まで心の底にこびりついていた迷いからめざめました。 芭蕉の詩魂はきびしい現実の葛藤を乗り越えるたび体験に密着した著しい深化をみせました。 やがて彼の心の奥に世俗的功利主義の無意味さから抜け出した清澄な進化の世界がみえはじめたのでした。  枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮 芭蕉 の句を境として、芭蕉の句作は、ようやく旧派の滑稽を離れ、東洋の深みの世界に入りはじめたのです。 やがて芭蕉は、古池のように濁りきった旧派の俳諧に、敢然と革新の一石を投じました。 そのひとつは、俳諧を庶民の芸術として門戸を開放すること、町人や農民たちも容易に作ることのできるように、俳諧を大衆化させることでした。また、その内容を単におもしろくおかしくというだけでなく、高いはずみを持つ東洋芸術の精神を備えた詩とならなければならないという理想を実現させることにありました。 この時期を境として、浮薄な町人俳諧や、学問知識香ることを自慢して見せびらかせるだけの、いわゆる学者ぶった武家俳諧は、しだいに蕉風の新風に圧倒され、俳諧が広く日本全国の庶民大衆に波及し、まじめな新しい芸術として開放されていったのです。学問と教養から閉ざされていた庶民大衆にとって、芭蕉の俳諧は、だれもが容易によじ登ることのできる、たった一つの文化の綱だったわけです。したがってこれは、文化史的な革新であったといえるのであります。 伊賀上野の城下町が生んだ芭蕉は、この偉業によって、中国の杜甫やドイツのゲーテと並んで、世界的な国民的大詩人の列に加わったのです。しかし、この芭蕉の精神を当初から理解していたのは、門人のなかでもごくわずかな人々にすぎませんでした。    この道や行人なしに秋の暮  芭蕉 まさにこの句のとおりの孤独の道を、長いあいだ、芭蕉は歩まねばなりませんでした。 (【註】)江戸の俳壇 初期に活躍した有力な貞門俳人に斎藤徳元、中井ト養、高島玄礼、石田未得、春陽軒加友の五人を江戸五哲という。

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