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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月10日
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『江戸両吟集』

桃青時代、山口信章(後素堂)と両吟にて菅神奉納の二百韵を試み、延宝四年春三月『江戸両吟集』の標題にて開板せるものである。後、延享四年(1747)一浮齋盛水「芭蕉素堂両聲たる梅花の韻は亡父一葉一永が古文庫より出たり」とて此一巻を「梅の牛」の題名としたものが世に行なわれる。『江戸両吟集』は今その所在を知らず、文政四年(1821)三月柳亭種彦が古板本より筆写せるもの、並に『奉納貳百韵』と題せる別写本を本文とし「梅の牛」及び「一葉集」と對校した。(「芭蕉一代集」『日本俳書大系』所収。

 

『江戸両吟集』の解説 『素堂の俳諧一』「談林の時代」清水茂夫氏著

54  山椒つぶや胡椒なるらん              桃青

55 小枕やころころぶしは引きたふしは      信章

56  台所より下女の呼び声                桃青

57 通ひ路の二階は少し遠けれど            信章

58  かしこは揚屋高砂の松                桃青

(江戸両吟集    此の梅にの巻)

55、の信章の附句の「小枕」は女の髦の根に入れる木で、小さく円い形をしたものである。「ころころぶし」は前句の山椒を受け、俗に「ころり山椒味噌」という浮世草子などに見える慣用句によっている。一句は女の髪の小枕をあげ、髪も乱れて小枕ころころころぶ様に女のころくころび臥す様を懸け、続いて引たふしはと男の女を引き倒す様を表わしている。女の臥す様、男の引き倒す様は前句の山椒粒や胡椒粒が散乱した状態にも比すべきであろうと前句に応じている。

56 5758の句も場面は異なっているが、全く庶民的な愛欲の様相を露 骨に表現しているのであって、人間自然の愛欲を肯定し、それへの賛歌が端的 に歌われていると言えよう。云々。

〔素堂余話〕

…素堂と芭蕉の関係は、芭蕉が没する元禄七年まで約二十年間続き、二人三脚の活躍は、当世の俳諧をリ-ドした。芭蕉に視点を合わせれば芭蕉が中心になるが、素堂を中心にしても自然である。芭蕉が提唱したと云われる「不易流行」説は、素堂が芭蕉に先がけていち早く提唱していることは、『続虚栗』(貞享四年)の序文中に明確である。

 

『国文学』「芭蕉の軌跡」。市井の俳諧師時代、信章との風交、〔絶妙の二人三脚〕広田二郎氏著(昭和54年10月号P30~36)

(前略)連句に於て、桃青(芭蕉)と信章(素堂・来雪)が最も個性を発揮し、力量を出し尽くすことが出来たのは、両人の組み合わせよる興行の場においてであった。それは絶妙の二人三脚と称すべきものであった。

 

『国文学』「芭蕉の軌跡」桃青三百韻、立机前後の自信作 阿倍正美氏著(昭和54年10月号P44~50)

(略)しかし貞享・元禄と時代が住むにつれて、信徳と桃青の距離は大きくなるばかりであった。『去来抄』先師評の記述によると、「大歳をおもへば歳の敵哉」の発句の初五を、信徳が「恋桜と置べし。花は騒人のおもふ事切也」といったのに対して、芭蕉は「そこらは信徳がしる処にあらず」と言い放っている。また、信章とのつき合いは晩年まで親密であったが、俳諧に関しては所詮ディレッタントの彼が、芭蕉の変風に追随し得たのも精々が貞享期までで、あとは結局芭蕉の独性の世界になって行った。晩年の芭蕉も、この二人の上に思いをはせる時、うたた今昔の感に堪えなかったのではあるまいか。

 

『江戸両吟集』「梅の風」二の表の七句目 (『芭蕉の研究』小宮豊隆氏著    昭和二十一年刊)

玉子の前やうちくだく覧             桃青

傳聞唐のやうかんかすていら         信章

この素堂の附句は、純粋に談林的なもので、談林を離れれば、いくら好意をもってよく見ようとしても、到底よく見やうのない句である。その点では前に触れた芭蕉の句とは大分趣を異にする。此所にはかすていらの實感から来た何ものも存在しない。云々

 

『江戸三吟集』「いかのぼり」の巻、初裏の十二句目と十三句目とは、

夕間暮小風呂に流す水の月               信徳

木綿ざらさの紅葉かたしく               桃青

花に風荒木珍太をあたゝめて             信章

芭蕉は此所で、月に對して紅葉を點出し、夕間暮に應じてかたしくと附ける。さうしてその紅葉を形容する為に、瓜哇更沙の模様と色彩を採用してゐるのである。

素堂の附句は、初裏の十三句目は、花の座になってゐる。従って此所に是が非でも花を詠み込まなければならない。然も前句までの三句はずうつと秋が続いて来ているから、リアルな花に此所に持ち出して前句と矛盾の感を起させない為には-或意味で非凡な力量を要する。素堂はそれを「花に風」といふやうな、具體とも抽象ともつかない、甚だ朦朧とした言葉で、朦朧と解決して、更に「荒木珍太」なるものを し来つて木綿ざらさに對照させ、更にそれを「あたゝめ」るといふ事によつて、紅葉をかたしくに呼應させた。これは談林の附句としては、申分のない附合である。荒木はアラキで瓜哇の産物で酒で、珍太は赤葡萄酒である。云々 (頁-240~242)

 

『芭蕉全伝』山崎藤吉氏著。昭和十七年刊。

(略)芭蕉が新俳を興し得たのは、山口素堂の助力に負う所が多い。芭蕉は延宝四年に信章(素堂)と『江戸両吟』をしてから以来、素堂の助力を受けて居ることが極めて多い、新律の代表句の「枯れ枝」の吟の脇句も亦素堂が承って居た。

素堂自身は斯う言うて居た。芭蕉庵俗名甚七郎、都の季吟の門に入り、久しく東武に潜り給ひ、俳諧の深き心を学び、正風の俳諧起るの祖なり、予(素堂)叟(芭蕉)と共に友とし猶與力すといへども、九つは是を助けられ、一つは之を補ふのみ。

とて、少し計り助力したと言って居るが、素堂の此の謙遜の詞の中に、猶多く芭蕉を援けて、新俳を興すに努力したことが窺はれる。

寛文の頃、貞徳門の中で、他に擢んでて清新の句作ををした人に松井維舟がある。

素堂は維舟と交際が有ったといふことである。其為であろう、素堂も亦早くから新俳を起こすことを心がけて居たものである。(中略)

芭蕉が世に認められようになった内面の助力は、素堂の親交ぶりの厚さに頼ったものといっても過言ではない、夫れで芭蕉は素堂を「先生」と呼んだ。芭蕉が新俳を興した裏面には、斯くまで素堂の助力に頼っているのに、卓郎は、芭蕉が正風を興すことを勧めたのは季吟であると言って居た。云々

一説に三叟閑談といふのがある。三叟とは季吟・素堂・芭蕉の三人である。此山陰が相談して、芭蕉に新俳を興させたといふのである。其閑談を左に、梅翁(宗因)なんど、談林の棟梁として、枝に生疵絶えなんだの最中に侍りしを、季吟もなげかしがられ、桃青・素堂と閑談有り、今の俳諧うち和らぐるかたもやと、三叟神丹を練て、桃青其器にあたる人とおして勧められしにより、然らば斯くの趣にやと、枯枝に烏のとまりけり秋の暮、の一句を定められし。とある、かゝる説は信じられるものではない。素堂が援助したことを、向を變へて甘く作ったものとしか思われない。又梅人は、素堂と杉風と芭蕉の三人が、芭蕉庵で新風を建設したものだと言って居た。何れも皆よい加減の推測であろう。

『俳諧芭蕉談』に素堂の傳ふる所だとて、季吟の物語を掲げて居た。左に、或時桃青予に語るらく、萬葉集を周覧せしに、全篇諸兄卿の運給ひたるのとは見えず、多くは其人々の家の集を、後に寄せ集めたるものと見ゆとなり。此事予が見識の及ぶ所にあらず、桃青がいふ事を聞てより、大に利を得たり。

(中略)素堂と季吟は江戸で面会して居ないから、右の話を季吟の話だと素堂が傳へたことは、有り得ない事だと言って居る。素堂が江戸で季吟に会ったか会はないか判らないが、芭蕉が萬葉集の或部分に疑ひを掛けたといふ話は、誰もが真面目で相手にしない位偽説だと見られて居る。

『芭蕉の全貌』「第四章、芭蕉の江戸下り」萩原蘿月氏著。

(略)例へば五月雨や龍頭あぐる、梢よりあだに落ちけり、雨の日や世間の秋、阿蘭陀も花に来にけり、花むくげ裸童、枯枝に烏、雪の朝獨るなどといふ句は、慥かに前時代の言語遊戯の句に比して一進歩であると思ふ。中にも枯枝に烏の句は、古来茶話口傳の句として尊重された。此句は言水の『東日記』中の句で、後元禄二年の『廣野』に、中七字をとまりけりと改訂して出した。

茶話口傳とは吏登の『或問珍』(享保十七年刊)に、梅翁なんど、談林の棟梁として、枝に生疵絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も嘆かしがられ、桃青・素堂と閑談ありて、今の俳諧和らぐる方もやと、三叟神丹を練て、桃青其器にあたる人とおして勧められしにより、然らば斯くの趣にもやと、枯枝に烏のとまりけり秋の暮、の一句を定められし。是を茶話の傳と申すなり。云々

なほ蓼太の『芭蕉翁句解』にも、この句は季吟・芭蕉・素堂一派、新派の茶話口傳の一章なり。云々

素丸の『説叢大全』には之を難じて、季吟・芭蕉・素堂新立の茶話口傳といふ事いぶかし。素堂と季吟との對面はなき事なり。黒露に聞きしが是も右の如く答へし。季吟俳諧を業とする時はいまだに洛に住す。関東へ召さるゝ節は、芭蕉に俳諧をゆづりて、其身は歌學を専として、俳諧を捨てたり。季吟と芭蕉は師弟の事なれば、口傳の茶話もありたるなるべし。素堂江戸深川に居て、何ぞ是にあづからんや。思ふに、翁江戸に来りて、素堂と隣家たり。なほ風雅に交わる。よって此句の相談もありて、正風體一派新派の誓盟あり。云々

 とある。季吟と素堂の對面なき事は素丸の説のようであるが、芭蕉と素堂が相談して、此句によって正風體一派新派の誓盟があったなどといふ説は信じられない。云々

季吟と俳諧

……『武蔵曲』  千春編  天和二年(1682) 序

『俳諧勧進牒』 路通編   元禄四年(1691)

其角参會のとき

目をしやれよ花はしほれたる庭なと   季吟






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最終更新日  2020年06月10日 20時47分23秒
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