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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月16日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉談四編 次郎兵衛物語 貞享元年~

 

東肥八代 乞隠文暁編

 

〔註 文暁〕俳諧大辞典

 

 俳諧作者。享保2(1735)~文化13(1816

『歴代年譜事略』、八二歳。藁井(ワライ)氏。

法名、了幻院法侶。

別号、紫海・法月・大律・渡白人・乞隠・西天庵・露竹庵・雪吹庵・行月坊・東流館。

 

肥後国八代の正教寺第一〇世の住持。

俳諧は、先住支明(俳号、雪蘭居)の教導を受けて獅子門の俳諧を嗜み、のち春渚(シュンショ)峻奏請にも親しんだ。

寛政四年(1792)暮に小林一茶をその寺に留めており、闇更・士朗・蝶夢・重厚・玉屑(ギョクセツ)・奇淵らとも風交、寛政期(17891801)の俳壇で活躍した。

編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反古文』(『花屋日記』『次郎兵衛物語』(稿本)ほか。

「大内初夫氏著」

 

 【註】 一部加筆 山梨歴史文学館

 

次郎兵衛物語

 

その年明くれば貞享元年、

 

子の正月也。改元は二月也けり。

其年は處々移徒の会、夏六月に及ぶ。

七月十八日、

大和の千里、尾張の荷兮より使いとして来る。

近江の東藤・桐葉のもとより使来る。

京大阪、加賀、日々の文通也。

何方も始めての事なれど、

先故郷の方へ近よらんとて、

千里が先の案内なればと

尾張を志して出立ありけり。

我は七月廿日に先立て伊賀にかえり、其事を申けり。

 

翁は国を出給いて十八年ぶり、

御国に入り給う。

ご一類中の悦び限りなし。

翁は先ツ伊勢に赴きて、

松葉屋に十日余り宿し給い、

それより内外宮、足早に巡拜あり。

九月上旬、

上野に帰りつき玄番町の御屋敷に入給う。

御両親も過させられ、

半左衛門様、御両親の遺髪を取出し給いて、

御対面の心地、御存生の御心にて、

外方も御落涙ばかり也。

十五日御滞にて、

今度殿様に御目見へ申上らるべき所、

江戸に朝鮮人来朝につき、

伊勢の殿様御用にて、

阿濃津に新七郎様御出府故、

御対面もなりかね、

直に大和の国に引越にて、

千里は少し御縁ありける故、

是に五日御休息にて、

と東摩寺より吉野にかけ、

帰り急ぎきて、桑名に出給い、

本當寺に三日御滞在にて、

十月三日に、熟田の社に御参詣なされ、

名護屋の荷号方に御着き彼成候、

十五日御逗留也、

我は十七日に御暇申して帰りけるに、

翁は十二月廿五日に出立し給ひけるとなん。

 

東藤・桐葉に別れて、

工山か導きに、奈良に出給いて、

侘しき山家にて、

年を越へ給いて、笠も草鞋も脱がず、

年取りておかしがり給いしと、

便りし給いける故に、

正月廿五日に、奈良に出迎申して、

二月三日、京に御供して、

伏見の西岸寺に一夜、鳴瀧の三井が隠宅に二祝、

それより長者町の去來方に三月十七日迄居給い、

大津の桐葉亭に御供し、また川端子御供にて、

乙州亭にて別れ申て、我は伊賀に帰り申しけり、

翁は常陸の鹿島潟に、

御出浮の御約諾ありし人もあるよし、

芭蕉庵留生居を致すべきよし、

仰ある故、翁の事は乙州親子方に頼み置き、

伊賀に帰り、母が三年忌を四月に取越して、

七月廿九日に深川に参候。

翁は八月三日河合宗五郎(曽良)御供にて、

常陸に御出浮なされ候。

 

其年は、江戸も雨繁くありしが、

案の如く、常陸邊も雨降り続きて、

さして月の興もなかりしよしに、

九月朔日には帰り給う。

その翌年(貞享二年)

は又上方見残したる所々、

また見たる處隈々迄、

また須摩、明石、橋立邊も見度、

さすれば丸一年はかゝるべし、

の給いければ集会せし人々申されけるは、

かゝる夥しき門人ありて日夜慕候中に、

一年中他出なされては合点いたすまし、

せめて春中には帰り給われかし、

その事、

杉風・其角・桃隣より

露沾公に申し上げられければ、

以の外心を傷め給い、

御自身御偲びにて芭蕉庵まで出駕ありて、

何れも申通り、春中には帰り給われかしと、

しきって御留めありければ、

翁も御承知ありて、

しからば冬の中より出浮て、

春中夏初には帰り可申と請合給いけり。

兎角に翁は、風雲の情常に動きて、

暫も一所に居を留め給う事為堅き御人にて、

我は騒ぐ心は無けれども、

常に道祖神の我を動(さは)がし給うなど、

戯れに申給う。

さらば冬の中より、飛杖あるべしと定まりで、

露沾公、其角亭に御出座にて、餞別の会、

十月五日に始まり、それより日夜打ち続きて、

十月十日に御一緒に廿日出立ありけり。

 

何し時にや、岩城露沾公、

藤堂新七郎殿に江戸にて御出会ありけるにそ、

只今芭蕉と呼申候者、貴国の者に候、

世に珍しき

風徳の者出来候ものかなとありけるにそ、

新七郎様も成程拙者国の者に候と

甚々面目に思召して、

幸御在江戸にて、

御屋敷より御近衆を以て

深川に御使者有りて御召ある筈なりしか、

折ふし翁鹿島行にてありし故、

其儘打止給ひぬ。

此節は次郎兵衛覚え違い七前後になりたりと申されたり

 

御帰国の上、半左衛門様御召にて、

江戸にて岩城侯より、

かくかくの御噂ありしご御物語ありて、

一日なりと早く帰国あるべくと仰付けられ、

半左衛門様よりも飛脚を差出され、

其由申向になる。

我は芭蕉庵の調度など取片づけ、

十月廿七日罷立、

十一月九日に江戸を出立のよし申上ければ、

伊賀には待もうけありけり。

翁は道に御隙入有ける故、

鳴海に着給いけるは、十一月十一日也。

知足、安信、白笑、業言、如風など

と留めまいらせけれど、

三河国、伊良子崎の杜国が

保美と言所に待うけ居ると、

いふ事知らせありて、

越人に消息し、態と二十里餘あと帰りして、

杜国に逢給い、

杜国が在所。伊良子崎に三人行給いしこそ、

處から不自由なる所に、四五日遊び給いて、

熟田に奉幣して、

逢左の人々に逢えられて、休息し給う。   

こゝにて、

聴處、知行、野水、荷兮など集合ありしとなん。

夫より桑名、日永を過ぎ、

臘月廿五日、漸らく上野玄番町に入給、

廿年餘に御国にて、年をなさるゝ事なれば、

半左衛門御夫婦御悦にて、

御一類の姪子など、阿濃の津より登り給いて、

日夜脤々数三月にてありし、

併し芭蕉翁は、いかなる御性質にや、

二日と居所をしめおはします事御嫌いにて、

漸三日御屋敷に御座有りて、

四日には阿波の庄、大佛に御参詣被成り候。

猿雖、半残、卓袋、ヤツカレ御供仕候。

 

殿様(新七郎縁也御俳号探丸公)

よりは御逢被成度、

思召に御座候得共、

正月は、例年、年始の御禮、

御本家に御出産の事に候得ば、

御帰館迄は其事成り兼ね、

無據二月迄は御止り被成り候。

正月廿九日、

殿様御居館にて候得共、江戸御用有之、

三月三日より、

和泉守様、江戸は又々御出府故、

新七郎様御見立に阿濃津に御出成、

十一日迄御用御釣仕廻なされ、

殿様御節館は十二日也。半左衛門様も御供にて、

浙々二月十六日に、

殿様御返なさるゝに究り候、

廿二日に参殿に究り候。

廿二日、

幸い故蝉吟公の御庭の桜咲き出ければ、

是を芭燕に詠めさすべきと御意ありて、

殿探丸公も別殿にて御逢被成候。

芭蕉師は、

元日は一之宮氏子故御参詣あり。

二日には、故主令嗣公の御苔晟是は毎日也。

北口は御参詣あるに、御湯をひかせられ、身を浄め、

直に半左指門様御同道にて、

御殿に御上り成され、

廿餘年ぶり、御主従御対面あり。

其昔なつかし杯御言ありけるとなん。

芭蕉翁はひれふし給い、

暫らくは御言もなかりけるとぞ承る。

探丸公仰には、汝見覚えしや、

先主愛せられし桜なるぞ、

例年今比迄は咲き出さるに、

今年は貴殿を待うけたるや、

二三日に斯咲き出たるそ、

久々ふりに一句を聞かんとご御意ありけれは、

思うともなく、案するともなく、

 

  さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉

 

と、句し給へは、

探丸公、短尺御取上、御一覧ありて、

何万も物はのたまわず、

故令嗣君の御事思い出し給いしや、

只々御落涙し給うにそ、

一座の諸士あっと感じて、

誰一人物言者もなかりしとぞ。

暫くあって、

探丸公、誰人によって剃髪せしやと、

御尋ありければ、

当時江戸臨川寺万申に、佛項と申禅憎あり、

此僧を師と頼み嗣法仕、

先ン令嗣君の御菩提ヲ勤め申さん迄に候

と御答へあり。

終日風雅の御物語りあり、

種々御馳走ありて、

申の刻過御暇給はり、玄番町に帰り給いけり。

半左衛門様御同道なれば、

帰り道、昔の御同役中、

御朋友の御方、御尋ね有けれども、

その中半に故人になり給う人々こそ多かりける。

家中市中ともに、

以前より御弟子になり居たる人迄にて、

今度とても、

芭蕉と云うは、

古への藤七郎殿なりと言うこと知らぬ人なく、

又内々にて江戸に取遣りして、

門人になりせし人も有りければ、

今度は當年中は留め置く、

又主公よりも、春中なりとも御留め申度、

頻りに御留めなされ候得共、

貝今迄に伊勢に奉幣も不在、

今度は宿願も候故、是非神拜仕度、

且又伊勢にて出會せんと申諾せし人も有候得ば、

何分にも見參仕度とて、

三月四日御暇を申て出立給けり。

 

 六月二十四日

 

それより伊勢山田網田氏に、十日余滞り、

伊良子崎の杜国、

初の名は野仁、北人待うけ居られたるに逢て、

此人を同道にて、

吉野の花に急がれけり。

四大和路も多武の峯、三輪、所々見廻り、

吉野より直に高野に登り、

故主令嗣君の靈牌を拝し、

杜国と共にまた奈良に赴給ふ。

我は京にて待うけ申べしと約して、

伊賀に帰りけり。

 

翁は五月菖蒲の日、

京の長考町、去来のもとに帰りつき給う。

我は近江木曽寺迄參たるに、

外郭の心ちにて相煩ひ、

四月十目迄病臥居たりしに、

去来のもとより知らせにより、

辻駕にて京にのぼり候。

かゝりけるに、この日大雨にて、

雷鳴烈しく、走り井に逃げ込み居たりしに、

翁は通りを過給いて、

乙州亭に入り給う。

雷歇(やみ)て、

長者町に急がせて參りたりければ、

行違いたり。

又々夜に入りて、大津に帰り、

乙州亭にて翁に御目ニかゝりたり。

又々五月廿日に、彦根に赴き給う。

行がけに曲水、丈草、正秀、乙州子など同道にて、

国分山に登り、

音に聞く幻住庵より湖水を見給いて、

許六の迎に逢給いて彦根に行給う。

 

六月十日

 

美濃の国岐阜の落梧より、

長良川の鵜飼い見せ申さんと、

己百と云人、迎として被參けれは、

六月十三日に、岐阜に赴き給う。

十五目に鵜飼見物ありて、

しばらく止り給うにありしが、

落梧の一子、俄に病気にて身まかり申されけり。

落梧夫婦の愁嘆限りなく、

翁も道心堅固の境界ながら、

他所の憐れをもらい泣き、

嘆き給い、御発句を遊ばしけり。

 

それより加島氏とやらの内にて、

廿三日に、待儲け耬に登り給う。

主の需にて、

其たかとのを十八耬と名づけて、

記を書給いけり。

ひたすらの留めにてありけれど、

與盡たりとて、翌日は帰り給う。

その井に名護屋の荷兮より、

越人を迎いとして、

八月は信濃国更科の月見の催し也。

我は御帰りを善光寺にて待受申にて、

八月十九日伊賀より打立参る筈の約諾也。

此時再び大津に帰り給いけり、

路通、御供申されけり。

翁も翌年は奥羽の方に飛杖の志のよし、

是は一年はかゝり給うべきなれは、

殿様よりも、兼ねて病身の事也、

殊に奥羽は東北の果なれば、

寒気にならぬ中に帰郷いたすべしなど、

左衛門殿にも仰せ有けるよし、

其趣内々江戸へも申贈られるとなん。

 

翁は八月八日

 

越人を同道、

荷兮が奴僕を供にて、名護屋を立給う。

我は十九日伊賀を立って、

善光寺にて待受けれど、

漸く二十八日に帰り来り給う。

尾張に申して、また江州より、

京に御供し、伊賀に下りしに、

江戸の杉風の使い、路通に逢いて、

十一月芭燕庵に帰り給う。

帰り着給う夜より、(内藤)露沾公に上り給う。

年内日夜會相続きて目出度春を迎給う。

又正月の末頃より、奥州出立の用意也。

年始の取遣りに、

右の事半左衛門様に申侍りければ、

殿様より御口上にて申し參る。

その事を我にも語り給う。

集り給う人々も心々にて、

宜かるべしと申す人あり、

また御病身ゆえ彼寒い国に決して

宜しかるまじと申す人あり。

ご自身には、

我いつも一緒に居つき候得ば、

積聚の事ゆえに悩みもあれど、

他国行脚の先々にて、

一度も積気の悩みなし。

喰物とても快し。

思立し事なれば、

一度は奥羽の名所は見まくほしと思い究めし也。

 

藤堂君より御止之事は、

御親切は有難けれども、

我僧徒の事なれは、君命と申にてなし、

同胞の事は、俗縁の人々の言う事にもあらす。

一分ンの風流は、他のしる事にあらず。

年我と共ならず、時失うべからず、

是非に存念をてけんと思い込み給いて、

留まり給う気色なかりければ、

我云、さあらば我御とも随従仕ツらん、

蝦夷、琉球迄も參るべしと申ければ、

翁の言、今度は河合惣五郎(曽良)約諾故、

この人を同伴せん。

其故は近国に其方召つれたるは、

度々行通いもあり、

国の便り所要の事あるに宜し。

初で赴く遠境に、

芭蕉が行脚にてもつれたりなど、

古えより類なき事也。

西行に登蓮。宗祗に宗長あるは同伴也。

是両士の魂魄にも申訳なし。

後代の人の聞く前恥ずべき事也。

繼令山賊夜盗に逢たりとも、

とらるゝ物なければ怖しき事なし。

又のたれ死にしたり共、

世を捨たる身の何か苦しからん。

故郷の人々にも其事は申すべしとの給い、

一言半句隙間なし。

次郎兵衛も兎角なし難くて、

二月中頃より芭蕉庵は住捨て、

杉風か後座敷に移り給い、

日々餞別の會のみにて、

三月廿七日取立にて、

惣五郎も剃髪し、曽良と改名し、

一衣一躰と笠とのみ。

千壽行迄忽連二百人他見送り給う、

各別れ申されけり。

我は四月七日迄、

後の調度など取片づけ、

廿日に伊賀に帰りけり。

六月頃は帰郷すべしと仰せられしに、何の左右もなく打すきけり。

 

八月廿二日

路通が美濃の大垣より知らせが来たる。

師翁もこの頃、越前津留賀迄、

御迎に参りたりしに、

案の如く彼方にて御待ち申、

此間是迄御供し参りたりとの知らせ、

伊賀上野に到来しければ、

急ぎて参たるに美濃にてはなく、

伊勢の御編宮拜とて参り給いけるとぞ。

それより、

伊勢山田涼兎という人の宿にて尋逢申たり。

いかなる事にて伊勢迄は行給いたると、

能々聞く侍れば、

路通と云人は思慮深き人にて、

翁は珍しき事を好ましく思う人にて、

其年伊勢廿一年にあたらせられ、

遷宮の年也。

翁是をしり給はば、

千里を遠しとせずして行給うべし。

我御供すべしと心つきし故、

津留加の等哉か方迄出迎いたり。

則其事を申したりしかば、

翁は大きによろこび給い、

能こそ知らせたり、

汝なくばまた廿一年待ちかりしに、

出かしたり何をかなとて、

尾花沢の清風が建たりし、

挾の絹布の二尺なりしを、

一尺切って路通に給いけり。

路通か生涯首にかけたる

頭陀の片身分ケの細布とは是也。

片身半はありしは、翁終焉後、

去来先生の松尾氏に御形見に申請られし是也。

伊賀よりは

迫々土芳、牛残、京より去来名代として、

凡兆。史邦、

近江よりは正秀、乙州、丈草、

この丈草は草履を買うべき銭なき故に、

遅れて一人跣足(はだし)にて、

伊勢迄行れしとぞ。

後れて参りたるは大阪の之道、京の為有なりけるとぞ。

曾良も加賀ニて別れたりしが、美濃にて待受是も参りたり。

 

次郎兵衛御物語終りは幻住庵の下に書添






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最終更新日  2020年06月16日 10時36分17秒
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