カテゴリ:山口素堂資料室
素堂、母の喜寿の宴
【解説】
これまで素堂についての間違い記事について、時折訂正してきたが、素堂の妻の死、母の死についてはそれが顕著である。素堂は生涯妻を娶らずとか、素堂の母の死は元禄三年などがそれである。素堂には妻も居たし、孫(素安)も居た。素堂の妻は甲斐の代官野田氏の娘であり、芭蕉が死んだ折に葬儀に出席できない旨の手紙を曽良に出している。また母の死は幕府儒官人見竹洞の書に明記してある。 ここに掲載の『韻塞』は元禄五年刊行なので、素堂の母は健在で、元禄八年の夏に急逝した。
七月七日、素堂の母、喜寿の宴。 七十あまり七としの秋、 七月七日にことぶきする。 万葉七種をもて題とす。 これにつらなる者七人、 此結縁にふれて、 各また七叟のよはひにならはむ。 七そじなゝのと詠じ給ふは、 みずからを祝ふなるべし。 今我母のよはのあひにあふ事をことぶきて、 猶九そじあまり九つの重陽をも、
寛文二年(1662)生、~宝永二年(1705)歿。 年四十四才。本名河野通賢。 近江国平田村の真宗光明遍照寺第十四世住職。蕉門。 許六の盟友として、この書等を共著。
菊本直次郎氏所蔵芭蕉真蹟の一幅(阿部正美氏著『芭蕉伝記考説、行実編』紹介)や、今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』にも記載があるが一部異なる箇所がある。 素堂の母の死 資料
(1) 元禄三年説 甲府尊躰寺山口家の墓所にある墓石刻字による。 (『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
(2)元禄八年夏、人見竹洞著 素堂山処士養八旬 老萱堂至孝乙亥之夏 忽然遭喪哀 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月16日 14時29分03秒
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