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2020年07月03日
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宮崎汀亀と『珠玉集』韮崎市藤井~須玉町東向 

『須玉町誌』通史編 第一巻 第4章生活と芸術 一部加筆

 

 宮崎汀亀の本姓は中込、名は政長、号は不老軒。不老軒とは命が長くあれと祈って号した。逸見筋不二井の郷、現在の韮崎市藤井に生まれる。長じて東向の宮崎家を継ぐ。天性風雅を愛して、自然と交わる。湖南亭字石に師事して俳諧に精進する。寛政三年(一七九一)十一月十六日、七十余歳で没している。法号は彩雲志毫居士である。

 宮崎汀亀については子供の伴七、俳号流亀が汀亀追善集の『珠玉集』を寛政一一年刊行しているので、この俳諧集によって知ることができる。

 『珠玉集』の最初は安忍楼氷鏡の漢文の序が載せられている。書き下し文にすると次のようになっている。

 

不老の亀翁、曾て余に詞して曰く、「已に不老と号し汀亀と名づく。其れ死生を如何せん。」と。余曰く、「生を愛し死を畏るるは、人の常情なり。惟れ至人 其の本より生きざるを悟れば、生くと雖ども而るに愛する所無し。其の未だ嘗て滅せざるに達すれば、死すと雖ども而るに畏るる所無し。故に能く死生に臨みて其の守る所を移さず。已に此の地に住み、道徳足れば、以て匪流を化し後に範たるのみとし附来、精神洒落、和気藹然、偸色婉容、人れば国ち孝有り、芳聲美誉、人皆賢と曰ふ。或は后学を導き、或は老禅を伴ひ、臨川の筆を揮ひ、鄴城の甎(かわら)を磨き、義之の蘭帖法を契し、張旭の草聖の伝を継ぎ、芸に遊び武を講じ、皆人然を得たり。謂ふべし、「青は藍より出で青き者なり」と。争奈薙露固より延べ難く、幻身空しくに青塚に埋もる。退邇を越へ賢友哀悼し、珠に集もて巻帙を作る。峡北の箕の新花の幸松園利躬先生、余をして其の首に題せしむ。仍りて先に観聴せし事実一二を記し、之が序と為して云ふ。

 

 この漢文の序は、箕輪新町(高根町)の幸松園利躬が安忍永鏡に書かせたもので、「精神洒落、和気藹然、偸色婉容、人れば則ち孝有り、その名声は聞こえ、人々は皆(亀翁を)賢であるといった。ある時は後学を導き、ある時は老禅を伴い、臨川の筆を揮い、鄴城の甎(かわら)を磨き、義之の蘭帖法を契し、草書の聖人と呼ばれる張旭の伝を継ぎ、芸に遊び、武を講じ、すべてにおいて大然を得ていた。(亀翁こそ)「青は藍より出で藍より青き者なり』というべきである」と宮崎汀亀の人柄・人格について書かれている。

次に二時庵自徳の序が掲載されている。

不老軒汀亀居士世にいませし時、いと懇に文をとひ問はる。ある日予が草扉を開き、膝をくみて、物語たまふに、不佞若きころ同門なる湖南面亭の門に人て、蕉風に遊ぶ万年ありき。人命かぎりあるにや、安養の客となり玉ひしかば、遠近の好士いたみの佳吟贈られ、机上に満ぬ。いでや追善の句々を編て、吊はんこころざし深く、桜本にちりばめぬるふし、足に題せよとある。信友利躬老人の望いなみがたく、取りあへず袂から落るなみだの思のにとじる事しかり。

 

 二時庵自徳は信州諏訪の俳人で、湖南亭宇石・宮崎汀亀とは親しかった。この序によると汀亀は生前自徳とはかなりの交際があったものと思われる。手紙を取り交わし、更に自徳の家に行き話をしている。話の内容は俳諧のことであった。「湖面亭の門に入りて蕉風に学ぶ」と自徳は言っているので、宇石は自徳と同門系の葛飾蕉門の系譜であり、湘南亭字石の門人であったが、自徳に俳諧のことについていろいろ指導を受けていたのではないかと思われる。追善俳諧集に『珠玉集』と命名したのは自徳であった。なお、追善俳諧集の書名をお願いしたのは汀亀の俳友であった利躬であった。自徳は「袂から落るなみだの思の玉」と感激して『珠玉集』と命名したのである。

 

 小沢柳涯は『甲斐俳人伝』で次のように自徳と汀亀・宝石との関係を書いている。

 

信州諏訪の俳匠二時庵自徳は宇石の師なり。かつてその秘書を宇石に与ふ、宇石更に不老軒汀厄亀に贈る。自在庵より伝はりし秘書共この度遣はし候間ゆるゆるとお考へなさる可く候。この問申し捨ての句

「見る方へ向くや野巾の梅の花」

汀亀、この文書をくり返へして

「良く見ればゆかりの色のに筆哉」

応唱自在いづれも妙、師弟の情濃かなるを見る。

 

 『珠玉集』の序丈は湖南亭字石が書くのが普通であるのに自徳が書いているのは、宇石が寛政二年(一七九〇)江戸に帰ってしまったからではないかと思われる。

 『珠玉集』には汀亀について、書き手はわからないが汀亀の生涯の概要、『珠玉集』刊行の意図が次のように書かれている(近此547。以下同)。

 

かねか御岳の影うつる汐川の辺、頃向てふ巻に住る宮崎政長雅名を不老軒汀亀と呼べるに隠風士あり。先におなじ郡祁不二井の郷中込の家に生れ、明和の頃、結ふの神風に宮崎の家を継ぎぬ。いわけなきより風流を好み、片芳野更科の誹途をたしなみ、旅心をかさねて、不老を養ふ種とし、唯古池の蛙の音に耳をすまし、かしらを出して汀に亀の遊ぶがごとし。されや正風を仰ぎて、縣のつかさ湖南亭主人の門に入りて年あり。はた牧童の為に水茎の歩みを教え数術拙からず。あるいは永き日には囲碁を弄へて暮れるヽをわすれ、又ざれ哥の名は世の中おさまろと号ていと心まめやかなり、しかはあれども、亀もよろづ年のかぎりやありけん。痰痛にくるしむ頃日ありて、雪見の吟をよみとのつとにして去年の仲冬十六日の朝の霜と消へぬ。嗚呼、いたましひ哉、愚老桃園のまじわりをなせしも、夢の敗の夢さめたる心ちして、只残りたる言種のみくり返し、くり返し、忘るゝ日もなく、はや一めくりの法筵にかへるのふし、居士の残せるホ句を此小冊のうちにしるしなば、追悼とも作善ともなりなんと、たれかれ耳に聞ふれたるを、幸松園の窓にて愚なる草に書つひるも、いとど残りの雪に紙子の袖をまだらにしる事しかり。

 

 前記したことと重なるが、要旨は以下の通りである。藤井の中込家に生まれる。明和(一七六四-七二) の頃東向の宮崎家を継ぐ。俳諧を好み、吉野・更科へ発句の創作の旅を続けた。不老軒と号したが、不老を養う種として、ただ古池の蛙の音に耳を澄まし、頭を出して水際に亀が遊ぶようにしている。蕉風を理想とし、字石の門に入った。郷土の子弟の教育にも当たり、数学ができた。囲碁の趣味ももっていた。老後には疾痛に苦しむようになり、雪見の辞世の句を黄泉の土産にして去年の十一月十六日の朝に没した。汀亀との交わりは夢の中の夢で、死は夢の冷めたような心地がして、汀亀の言葉を忘れる日もない。一周忌になったので、汀亀の発句を冊子に掲載すれば、追悼・作善になると誰彼ともなくいった。坂本利窮を窓口として編纂した。

 

『珠玉集』に汀亀の子供の伴七、松涛斎流亀は文と句を掲載している。

亡夫多病のうへ風の心ちにていさゝかの様なれども、終の道におもむきし。夕べより遥ふみわけて、空しき塚へ詣ぬるおりから、手向の草も枯て、只生前に言残せる教へのみ残し、かなしみのあまり拙き言の葉を述るに、又諸好士より悼の玉詠を恵み玉へるを、至来にまかせ、いさゝかの桜木にのぼせ霊前に備るのみ。

しかられし辛おもひ出す雪野かな   松涛斎 流亀

  問ふ人も名のみ残るや雪仏      蓬莱亭 遊亀

 汀亀は風邪によって病没したのであった。流亀はむなしい思いで墓に詣でるが、手向けの草も枯れ果てている。

流亀にとって汀亀は父親であると同時に俳諧の宗匠であったので、教えられたことが多く思い出され、悲しみに咽ぶのである。俳諧の師匠・先輩・友達から数々の追善俳諧が寄せられたので『珠玉集』を刊行したのである。

  しかられし事おもひ出す雪野かな

 この句には、父親であると同時に俳譜の宗匠であった汀亀の教えの数々が思い出される。汀亀は二月十六日亡くなったが(史料編は二月になっているが、校正ミスである)、恐らく雪が降っていた日ではないかと思う。雪野を見るにつけ父親のことが一際偲ばれるのである。父への、俳諧の宗匠への尊敬と感謝の心が込められている。

 流亀の次に蓬莱亭遊亀の句が掲載されている。

  間ふ人も名のみ残るや雪仏

 いろいろなことを尋ねた父親も、今は雪仏になっていると詠んでいるのであり、汀亀の子供であると思われる。

汀亀は雪を愛した。それをよく知っているのである。汀亀の句についてみていきたい。

  袂から数珠粒落とす雪見かな

 辞世の句である。数珠は、仏を拝む時や念仏を唱える時に手に持つ仏具である。多くの小さい珠を糸で貫いて作り、中間にある大きな玉を母珠、そのほかの小さい珠を子珠といい、数は一〇八の煩悩を除く意から一〇八個のものが普通である。その大切な数珠粒を雪見に行って袂から落としてしまう。

雪の降った光景の美しさに見とれている作者がある。俳諧は芸術であり、芸術は美の形象化に究極的な目的がある。雪野の美を求めるところに俳諧があり、芸術がある。汀亀の俳語は「蕉風に学ぶ」ことを目標にした俳諧

であった。蕉風の理念は自然美を求める俳諧であった。芭蕉の辞世の句は

「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」

であった。芭蕉は最後まで「枯れ野」の美、「さび」の理念を追い求めたのである。最後まで現世の美を求めて来世の世界を求めなかった。

 汀亀は多病であった。死を前にして来世の世界、仏教について考えたことと思われる。汀亀は俳人として死を前にして、最終的に思うことは俳諧と宗教の問題であったと思われる。

 汀亀は自分の俳諧を「不老」とし、また汀亀と付けたのであったが、安忍楼永鏡に「其死生を如何せん」と尋ねている。汀亀は芸術家であるとともに、人生の求道行であった。両者を具有していた。しかし、最終的に汀亀は美しい雪の原で、自然美の前において快から数珠の粒を落とすのである。自然美を求め、その前に見とれて頭を下げる。俳人としての、芸術家としての見事な最後である。

   春の句

  さヽ板の舟ひく児や雪解川        

てふてふの中はね巡る野馬かな

  雨ばれの石なめて居る小蝶かな      

夜ざくらや酔醒ひとり昼の人

  急がれて葉は問に合ず梅の花      

 咲きそふにしては菜になる柳かな

  蝶々や人も菜飯にあそぶころ

(句解略)

    夏の句

  我が夢もあちに覚めたりほとゝぎす   

蜘蛛も糸やりはぐれたるあつさかな

  耳あらぬ猫もありけり子規       

かきつばだ大工には砥水汲行きぬ

  白壁の鼠壁のとあつさかな       

庭へひくれ見付たる苔の花

  酒さめぬ大あはれなりほとゝぎす

(句解略)

    秋の句

  泊ろふとおもふ家なし蕎麦の花    

 聞かぬふりするか男鹿のこがれ啼

  紅草やここかむかしの局跡      

 しら露や御坊は猫を呼びあるく

  誰か酔ふて踏みだおしたる野菊かな  

 蛤にならばなれなれ稲すゞめ

  行く秋や門〆に出てふところ手

(句解略)

   冬の句

  反故のうへに自くよごるゝ氷かな   

 達磨忌や我さへ壁を撫でて居る

  楠は石になるかも小夜しぐれ    

  腰懸し石へもの書くかれ野かな

  山伏は通り過けり藪すゝき     

  人仏をほめく巡る寒さかな

  今朝の雪こゝも花ふる浄土哉

(句解略)

 汀亀の俳風は蕉風であり、春・夏・秋・冬の自然を詠んでいる。八ケ岳・茅ケ岳の麓の町域は自然に恵まれている。この風土の中において自然を詠んだのである。四季の変化、その時々の自然を俳句に表現している。単に自然を詠むのではなく、自然の詳細な美を詠んでおり、繊細な感受性がある。春・夏・秋・冬の自然美が、それぞれの特殊性が表現されている。春・夏・秋・冬の自然とともに昆虫・家畜・人々の生活や行為が詠まれている。自然とともに人事を表現しているのである。(以下略)






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最終更新日  2020年07月03日 18時49分56秒
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